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いじめ事件 ・イジメ ニュースを発信中!スマホいじめが増加!子供達をいじめから守ろう!

日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由

最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。

いじめは80年代なかば以降、人びとの関心をひく社会問題になったが、いじめ対策は効果をあげていない。

それは、学校に関する異常な「あたりまえ」の感覚が一般大衆に根強く浸透してしまっているからである。マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者や評論家や芸能人たちがでたらめな現状認識と対策をまき散らし、一般大衆がそれを信じ込んでしまうためでもある。

私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ。

きわめてシンプルな「いじめ対策」

いじめを蔓延させる要因は、きわめて単純で簡単だ。

一言でいえば、市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、②逃げることができず、ちょうどよい具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。

対策は、次のこと以外にはまったくありえない。

すなわち、①学校独自の反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。

このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を読んでいただきたい。これを読めばいじめについての基本的な認識を手にすることができる。

まず、本稿執筆時に注目を浴びたいじめ報道を手がかりに、私たちが学校という存在をいかに偏った認識枠組で見ているかを浮き彫りにしていこう。

福島原発事故のあと横浜に自主避難していた子どもが、何年にもわたって学校でいじめを受けていた。そして何年ものあいだ、教員たちはいじめを放置した。その経緯のなかで150万円もの金をゆすられたと保護者は訴えた。金を払ったのはいじめから逃れるためだったと被害者は言う。いじめ加害者たちはおごってもらったのだと言う。

メディアはこれを報道しはじめた──。横浜市岡田優子教育長が、「金銭授受をいじめと認定できない」と発言したのに対し、被害者側が「いじめ」認定を求める所見を提出したのが報じられると、世論が沸騰し、さらに報道が大きくなった。

「横浜いじめ放置に抗議する市民の会」は金銭授受を「いじめ」と認めるよう、2千人ほどの署名を添えて市長と教育長に要望書を提出した。これと連動して、他の地域でも原発避難者の子どもが学校で迫害されたという報道がなされた。

学校のような生活環境では、ありとあらゆることがきっかけとして利用され、いじめが蔓延しエスカレートしやすい。原発事故からの避難者にかぎらず、学校で集団生活をしていれば、だれがこのような被害をこうむってもおかしくない。

問題の本質は、学校が迫害的な無法状態になりがちな構造にある1

1もちろん原発事故の問題が根幹にあるのではないかと疑われるケースもある。たとえば以下は、保護者が実名で訴えたものだ。
福島第一原発に近い地域で被曝をさけようと給食を食べない生徒に、他の生徒たちが暴力を含むいじめをした。暴力を止めさせるよう親が申し入れをしたところ、教員は「安全」な給食を食べろと圧力を加えるのみで、暴力を放置した。
このことを保護者が訴え続けてもメディアは取材すらしない。保護者はYouTubeで英語字幕をつけて発信し、これには海外からの英語コメントがたくさんよせられた(この件に関してメディアは取材をして、事実関係を調べるべきではないだろうか)。

いじめは教育の問題なのか?

まともな市民社会の常識で考えれば、他人をいためつけ、おどして、その恐怖を背景に金をまきあげれば犯罪である。「おごってもらっただけだ」という言い訳は通用しない。

たとえば、暴力団が何年ものあいだいためつけ続けた被害者に対して、恐怖を背景に大金を「おごり」名目で巻き上げた場合と同じことが、いじめの加害者たちについてもいえる。

学校をなんら特別扱いしないで見てみよう。すると、地方公共団体が税金で学習サービスを提供する営業所(学校)内部で、このような犯罪が何年も放置されたということが、問題になるはずである。

しかも公務員(教員)がそれを放置していたことも重大問題である。公務員は、犯罪が生じていると思われる場合は、警察に通報する義務がある。知っていて放置した公務員(教員)は懲戒処分を受けなければならない。

このような市民社会のあたりまえを、学校のあたりまえに洗脳された人は思いつきもしない。ここで生じていることは無法状態であり、犯罪がやりたい放題になることである。これは社会正義の問題である。

ここで「いじめ」という概念の使い方について考えてみよう。

筆者は「いじめ」という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組として用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理-社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている。

それに対して、誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない。

だが、多くの人びとは「いじめ」という言葉をつかうことでもって、ものごとを正義の問題ではなく、教育の問題として扱う「ものの見方」に引きずり込まれてしまう。市民社会のなかで責任の所在を明らかにするための正義の枠組を破壊し、それを「いじめ」かどうかという問題にすりかえてしまう。

そして悲しいことに、学校で起きている残酷に立ち向かおうという情熱を持っている人たちも、そのトリックにひっかかってしまう。 

認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題になった無法状態と化していたことだ。そして責任の所在を明らかにすることだ。

警察が加害少年を逮捕・補導する。犯罪にあたる行為を行った加害者が責任能力を問えない触法少年であれば、児童相談所に通告し、場合によっては収容する。

被害者を守るために加害者を学校に来させないようにする。放置した教員を厳しく処分する。加害者の保護者は、高額の損害賠償金を被害者に払う。学校が無法状態になりがちな構造を制度的に改革する。

それにしても、公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない。その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである。

もちろん起きていることは、責任を問う局面で犯罪であり、かつ、場の構造を問う局面で「いじめ」である。これが「いじめ」でなくて、何を「いじめ」というのかというぐらい、「いじめ」である。中井久夫氏がいうところの透明化段階にまで進行した「いじめ」である(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』(みすず書房)所収)。

もっとも重要なことは、加害者たちは学校で集団生活をおくりさえしなければ、他人をどこまでもいためつけ、犯罪をあたりまえに行うようにはならなかったはずである、ということだ。

つまり、学校が人間を群れた怪物にする有害な環境になっているということが、ひどいいじめから見えてくる。これが根幹的な問題なのだ。

外部の市民社会の秩序を、学校独自の群れの秩序で置き換えて無効にしてしまう有害な効果が学校にはある。これは、たまたまいじめが生じていない場合でも有害環境といえる。

「学校とはなにか」─それが問題だ

最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。

わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。

先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。

学校とはどのようなところか。最後にその概略をしめそう。

本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。

これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。

たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。

「わたしたちの学校らしい学校がこわされされる」
「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」

というわけだ。

そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。

この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人一人の人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。

多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴(めいちょう)するためであれば、長時間労働をいとわない。

その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。

ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人(現在大学生)の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。

こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。

さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。

学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。

この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない。

しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。

市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。

たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。

こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。

全体主義が浸透した学校の罪と罰

学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。

こういったことは、学校以外の集団でも起こる。

たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。

また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年あさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。

そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」、「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。

学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」、「宗教」、「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている2。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる。

2漫画家・エッセイストの田房永子は「膜」という語を用いて痴漢や強姦者やストーカーなど個人の独善的で歪んだファンタジーと行動様式を描く。筆者が難解な用語を用いて理論的に探究してきた心理-社会現象を、「膜」という直感に近い語によって、一般向けに平易に説明できることに気づいた。田房氏の卓越した言語感覚に敬意を表したい。
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html

このようにさまざまな社会現象から、学校と共通のかたちを取り上げて説明するとわかりやすい。あたりまえすぎて見えないものは、同じかたちをした別のものと並べて、そのしくみを見えるようにする。たとえば、学校とオウム教団と連合赤軍をつきあわせて、普遍的なしくみを導き出すことができる。

こうして考えてみると、学校について「今まであたりまえと思っていたが、よく考えてみたらおかしい」点が多くあることに気づく。

これらのポイントに共通していえるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、かけがえのないひとりひとりが粗末にされるということだ。全体はひとつの命であるかのように崇拝される。

この全体の命がひとりひとりの形にあらわれたものが「生徒らしさ」だ。だから学校では、「生徒らしい」こころをかたちであらわす態度が、なによりも重視される。これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義だ。

大切なことは、人が学校で「生徒らしく」変えられるメカニズムを知ることだ。それは、自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団のなかで別の存在に変わるしくみを発見する旅でもある。

ある条件のもとでは、人と社会が一気に変わる。場合によっては怪物のように変わる。この人類共通のしくみを、学校の集団生活が浮き彫りにする。

学校の全体主義と、そのなかで蔓延しエスカレートするいじめ、空気、ノリ、友だち、身分の上下、なめる-なめられる、先輩後輩などを考えることから、人間が暴走する群れの姿を明らかにすることができる。学校という小さな社会の全体主義とそのなかのいじめを考えることから、人間の一面が見えてくる。

わたしたちは長いあいだ、学校で行われていることを「あたりまえ」と思ってきた。あたりまえどころか、疑いようのないものとして学校を受け入れてきた。

だからこれを読んだ読者は、「こんなあたりまえのことをなぜ問題にするのだろうか」と疑問に思ったかもしれない。だが、その「あたりまえ」をもういちど考え直してみることが大切だ。

理不尽なこと、残酷なことがいつまでも続くのは、人がそれを「あたりまえ」と思うからだ。それがあたりまえでなくなると、理不尽さ、残酷さがはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも、「ひどい」と感じられない。歴史をふりかえってみると、このことがよくわかる。

これを読んで心にひっかかっていたものが言葉になったときの、目から鱗が落ちるような体験を味わっていただければと思う。もっと知りたいという方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』を手に取ってください。

Twitter がいじめ対策の新たな3つの対策を発表!

いじめ対策に取り組むTwitterが新たに3つの対策を発表した。永久凍結したユーザーによる別アカウント作成を阻止し、検索結果にユーザーがミュート・ブロックしたアカウントによるツイートを表示させないなどだ。

Twitterは2月7日(現地時間)、新たな3つのいじめ対策を発表した。同社のサービスは匿名で利用できるため、いじめ問題が後を絶たず、ジャック・ドーシーCEOは昨年末、2017年に取り組む最重要課題の1つとしていじめ対策の強化を約束した

永久凍結されたユーザーによる別アカウント作成の阻止

 Twitterはスパムや攻撃的なツイートなど、Twitterルールに反する行為をするユーザーのアカウントを一時的あるいは恒久的に凍結する。それでも別のメールアドレスを使うなどして同じユーザーが新たなアカウントを作成することがあるが、これを阻止する対策を強化する。

 具体的な方法は公表されていない(公表すればその裏をかこうとするユーザーに利するだろう)が、Twitterの広報担当者は米Recodeに対し、人間と機械学習の両方を使って対処すると語った。

検索結果での問題コンテンツ非表示化(表示も可能)

 検索結果に問題がありそうなコンテンツやユーザーがミュート/ブロックしたアカウントによるツイートを表示させない“セーフサーチ”を導入する。

 セーフサーチは初期設定で有効になっているが、無効にもできる。デスクトップの場合は、検索結果ページの右上にある[・・・]をクリックして表示されるメニューで「セーフサーチ設定」を選択し、表示される画面で「不適切な内容を含むものを表示しない」と「ブロックしているアカウントとミュートしているアカウントを除外」のチェックをオフにすれば無効になる。

 twitter 1セーフサーチ設定画面

“低品質”リプライの非表示化(表示も可能)

 会話中に紛れ込む悪口や“低品質な”リプライを非表示にする。これにより、より関連性の高い会話を表示するようになるとTwitterは説明する。

 問題のあるリプライが含まれる場合は会話のスレッドに「より関連性の低いリプライを表示する」と表示され、これをクリック(タップ)すると問題のあるリプライも表示できる。

 twit 2会話内の低品質なリプライは非表示になるが、表示させることも可能

 この機能は、向う数週間中に“ローリングアウト”していく。

 Twitterは今後も継続的に改善を進めていくとしている。

 

「いじめ」の認知件数が過去最多に!背景にあるもの…

ニュースでも連日にわたって報道されている学校の“いじめ問題”。これだけ社会的に問題視されながらも、いっこうになくならないのが現状です。そんななかで文部科学省が昨年10月に『児童の問題行動調査』を発表。その調査によると、2015年度に全国の小中高校と特別支援学級で認知されたいじめの件数が1985年の調査開始以来最多(22万4540件)となったことが明らかになりました。その増加の背景にあるものとは? そこで、数々の学校問題に取り組んでいる白梅学園大学教授の増田修治先生にお話しを伺いました。

●気づかれていない“いじめ”は、さらに膨大にある

「いじめ事件が連続していることを受けて、文部科学省は今回の調査では“解決済み”の件数や、“これはいじめではないか?”という疑問符がつくような件数も報告することを求めました。実は、これまで学校では、“いじめゼロ”という学校目標が掲げられ、それ自体が学校の評価の対象となっていました。教師は副校長や校長に評価され、さらに校長や副校長は教育員会に査定され…。そうなると、“いじめゼロ”という報告を上げることがプラスになるわけです。こういったこれまでの姿勢を文部科学省が改めたということが増加の背景のひとつにあります」(増田先生 以下同)

しかし、こういった調査の背景のみならず、実際に“いじめ”自体が増加しているのも事実だという。

「この調査のタイトルからもわかるように、あくまでもこの件数は教師が“認知した”いじめの件数ですから、気づかない数はさらに膨大にあると考えられます」


●いじめなのか? いじめじゃないのか? わかりにくくなっているのが特徴

特に、最近のいじめの特徴がいじめをよりわかりにくくさせていると、増田先生は指摘します。

「今のいじめは、非常にわかりにくいのが特徴です。つまり、いじめなのか? いじめじゃないのか? の境目をうまく渡り歩いているケースが多いのです。被害者の子は、もちろんいじめと感じているのですが、加害者たちは“これはいじめじゃなくて、いじっているだけ。むしろ、いじってやっているんだ”という認識で自分たちのいじめを正当化してやっているので、周りからはわかりづらく、いっこうになくならないのです」

小学校高学年から中学校くらいになると、“帰属意識”が強くなるため、いじめから抜け出せなくなってしまうケースが多いそう。

「どこかの集団に属していたい、その集団に属してないと不安…そういった気持ちから、いじられている、いじめられているとわかっていても、結果的にはその場所で耐えながらやっていかざるをえない状況になってしまうのです」


●社会全体が「いじめ」ができない雰囲気を作っていかないといけない

こういった子どもたちの状況、変化に教師や親といった大人たちがついていけていないのが問題だという。さらに、増田先生は、いじめへの大人の対応についてももっと改善が必要だと指摘する。

「現在のいじめへの対応は、加害者と被害者という当事者同士だけを指導して、その場で謝罪・和解させ表面的に解決したつもりになっているんです。つまり、そういった部分部分で解決していっても意味がないのです。クラス、学年、学校、社会レベルで追求し、“いじめはおかしい”という雰囲気、いじめができない雰囲気を作っていかなきゃいけない。また、いじめる子はなぜいじめるのか? その根本的な原因を掘り下げていかなければまた繰り返すだけなのです。つまり、一番問題としなければならないのは、見て見ぬふりをしている周りも同罪だということにみんなが気づかなければ、いじめはなくならないのです」

いじめの件数を明らかにして終わりではありません。その結果をもとに、なぜいじめるのか? なぜ、いじめがなくならないのか? 対策は? と、あらゆる角度からいじめ問題を追求し、社会全体で真剣に取り組んでいかなければならないのではないでしょうか。

 

「人の親になって、自分がどれほど残酷なことをしてたのか気づいた」

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子どもの頃に受けた「いじめ」の影響は、大人になってからも引きずることがある。2月6日に放送されたNHKの『あさイチ』の特集「いじめ後遺症」は、かつていじめられていた人の約6割が「大人になった今も日常生活に何らかの影響がある」と感じていると紹介した。

いじめをきっかけに何十年も摂食障害に苦しんだり、いじめから20年後に突如対人恐怖症に陥ったりした女性もいる。番組によると最新の研究では、いじめなどの幼い頃のストレスが脳の形や機能に影響を及ぼす可能性も指摘されているという。

「いつまで根にもってんの? って思われてるんだろうな」

また番組では、自尊感情を高めて「いじめ後遺症」から脱出するための方法として、「いじめ模擬裁判」という手法が紹介されていた。相手の非を洗いざらい吐き出して客観視し、相手に求刑して罰することで「自分は悪くない」ことを明確に意識するのだという。

いじめの被害者は、人知れず苦しみながら生きている。そんな思いを持った人も多いのか、2月5日、ガールズちゃんねるに「いじめっ子だった人に聞きたい」というトピックが立っていた。

スレ主は「中学時代、同じグループの子にわざと嫌がらせされたり、腹のたつ事を言われて」いたという。中学を卒業してから20年以上経ったいまも、自分がされて嫌だった事は「やっぱり凄く覚えて」いるといい、いじめをしていた人にこう問いかけている。

「いじめや嫌がらせをした事ある人で、自分のした事ちゃんと覚えてる人ってどれくらいいるのですか?覚えている方は、相手に対して後々謝ったり、やった事後悔したりしていますか?」

これに対し、いじめの被害経験者から、加害者はいじめたことを覚えていないか、覚えていても反省などしていないだろうという怒りの声が多数上がった。

「いじめて申し訳ないなんて、これっぽっちも思ってないだろうな」
「覚えてたとしても、あれはいじめじゃなくていじり。冗談で言っただけだよー☆あたしをイラつかせるあんたが悪いんでしょ?いつまで根にもってんの?バカじゃない?って思われてるんだろうな。こっちは一生忘れないよ」

いじめられる側になり、「やっと罪の意識をもちました」

実際に、いじめ加害者と再会したとき、相手がいじめたことを忘れていたという書き込みもあった。

「大人になっていじめっ子に再会して仲良くなったから覚えてるのか聞いたら、私の事のいじめた事なにも覚えてなかった」
「覚えてない。私はいじめてた相手に再会したとき、すごく辛かったといったらそう言われた。顔にイラッとしたのが出たのが伝わったみたいで、根に持つタイプなんだねーと言われた。殴りたかった」

やはり、いじめた方はそのことをすっかり忘れているということが多いようだ。その一方で、「後悔してるし悪いことしてしまったよ」と反省している加害者もいた。

「後悔してる。人の親になって、その時自分がどれほど残酷なことをしてたのか気づいた…」
「中学の頃は人間がまだ出来てなくて幼稚な事をしていたと思って反省しています」

また小学校ではいじめっ子だったが、中学になって今度はいじめられる側になり、「その時やっと自分のした事への罪の意識をもちました」という人もいた。「あれから20年経ちますが、本当に馬鹿な事をしたなと反省しています」。

かつてのいじめっ子に「同窓会で謝られたな」という人も

いじめの被害者は、加害者が何も感じずにのうのうと生きていると思っている。しかし元々はいじめの加害者であっても、自分自身が被害者に回ってしまったり、子どもができたりしたことをきっかけに、反省することもあるようだ。

かつてのいじめっ子に「同窓会で謝られたな」という人もいた。「ボスにくっついて一緒にいじめてた金魚のフンの方に。ずっと気になってたんだって」。

金魚のフンだった人を擁護するつもりはないが、グループのリーダー格の人に逆らえず、意に反していじめに加担してしまっていたという人も少なくないのではないだろうか。

 

原発避難者いじめは大人の責任!

高校生:石井佑樹 君 16歳の意見

原発事故で避難してきた生徒へのいじめをニュースで知り、僕はとても悲しい気持ちになった。

 未曽有の原発事故で家族や友人と離れてしまったり、故郷を失ったり、たくさんのストレスを抱えている人に対し、いじめをする人は心無い人だと思う。そもそも、問題の根本には大人たちの認識不足があると僕は思う。なぜ避難をしたのかをしっかりと大人が、子どもに伝えてほしかった。僕がいた小学校にも、福島県から避難して来た生徒がいた。最初は隣の学校に在学していたが、いじめを受け僕たちの学校に転校してきたのだ。彼が学校に来る前に、担任の先生が、これまで彼にどのようなことがあったのかを話してくれた。彼の困難さを少しだが理解することができた。だから彼が来たとき、皆でドッジボールや鬼ごっこなどの遊びをした。彼が喜んでいる姿を見て、僕はとてもうれしかった。このように、少しの先生の配慮で大きな変化があることを、僕は身をもって体験した。

 

殴る蹴るの暴行を加える動画 沖縄

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沖縄県沖縄市立美里中学校の男子生徒による暴行動画が30日、ネット上に流出した。同校は取材に対し、映っているのは同校生徒であり、現在学校内で「対応中」だとした。

 

問題の動画は約2分にわたり、断続的に暴行を加える様子を収めている。制服のズボンにアンダーシャツ姿の生徒が、上下学生服の生徒をフェンスに押し付けたり、投げ飛ばしながら拳で殴るほか、足や膝で蹴るなどして執拗に暴力を振るう。現場には二人以外に、撮影者も含めて少なくとも三人いたものと思われるが、動画の最後に一人が止めに入るまで、笑い声をあげるなどして周囲で眺めていた。

 

150万円脅し取られてもいじめと認めない教育長の背景?

「いじめられないために150万円を使っただけなので、それはいじめとは認定できません。」
これは福島第一原子力発電所の事故で横浜市自主避難してきた児童がいじめられたくない一心から同級生におよそ150万円を脅し取られていた問題で、横浜市の教育長が1月20日の市議会で発言したものです。

 

どうやらこの悪質で深刻ないじめについては第三者委員会が立ち上げられ調査されたみたいですが、その第三者委員会は「同級生らが『おごってもらった』と言っている以上、いじめとは断定できない」という驚くべき結論を出しました。
そして横浜市の教育長はなんと!その結論に則り、はっきりいじめがあったとは認められないと発言したのです。

第三者委員会が調査して結論を出す意味は?

これは世間一般の常識からするとありえない結論です。
第三者委員会の出した結論「いじめられたくないために同級生に『おごった』ということなら、いじめとは言い切れない可能性がある。だからいじめがあったとは断定できない。断定できないからいじめがあったとは認めらない。ゆえにいじめはありませんでした。」というおかしな三段論法でいじめという事実はなかったということにする。
それは教育委員会が出した結論ではなくて、公正公平な立場である第三者委員会が出した結論である。
公正公平な立場である第三者委員会が出した結論である限りそれを教育委員会は尊重する、というとても都合のいい立場に立って発言されたつもりでしょうが、教育委員会と第三者委員会が結託して責任逃れの口実を無理やり作りましたと世間に公表するだけの結果となりました。

 

どう考えたって『いじめ』としか言いようがないことでも、厳密にいじめとはなんぞやという定義を持ち出して、これこれはこの条件に完全に一致しているわけではないので『いじめ』とは認定されないとかなんとか理屈をつけて『いじめ』はなかったことにするのは教育者がやることではなくて、弁護士が依頼人の利益のためにやることです。

「いじめと認定される事実はなかったことにする」「いじめがあったことは知らなかったことにする」、だから学校にも行政にも責任はありませんということを第三者委員会なるものを使ってあたかも正当であるかのように主張する手法が通用するとでも思っていたのでしょうか。
そうなるとこの第三者委員会なるものは責任逃れをするためだけの装置としか思えません。

以前、舛添元都知事の問題が起こった時、「厳しい第三者の目で精査してもらって・・」と繰り返し力説しておられましたが、あれはただ責任逃れをもっともらしくするためだけのもので何ら客観性も正当性もないことはみんなわかっていたはずです。
こんなやり方は世間が納得しないということを行政はもっと自覚するべきです。

いじめ問題は学校だけでなく保護者全員が共通認識をもつことが重要

今後こういった問題が起きないよう再発防止には何が必要かということが真剣に討議されるべきなのに、いつも責任の所在ばかりが問題にされ一向に有効な対策が打ち出せないのが、このいじめ問題の真の問題です。

いじめ問題はもはや学校だけに任せて解決するものではないように思います。

 

いじめ問題の解決にはいじめている側の親、つまり加害者側の親が我が子をかばうことなく厳しく指導し、責任を持ってその解決に当たるようにすれば相当効果が上がるように思います。
そのためにはPTAが中心となって保護者全員が「いじめ問題」について共通認識を共有するようにし、いじめがわかった時には、学校側に任せるのではなく、PTAも加わって当事者の親同士がよく話し合うような仕組み作りが有効な対策になるように思います。