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いじめは大人社会の排除の仕組み

3.11とそれに伴う福島第一原発事故のため、福島から横浜に自主避難した中学1年の男子生徒が、いじめを受けていたことがニュースとなった。被害生徒の両親が開いた会見によれば、2011年に避難してきた小学生の頃から、生徒は周りの子どもたちに「菌」「放射能」と呼ばれたり、「賠償金があるだろう」と多額の金銭を強奪されたりしたという。
 
 被災者へのこうした暴力は、子ども社会特有のものでは「ない」だろう。社会が誰かを排除しようと企むとき、暗に使われるロジック――「私たちとあなたは違う(たとえばあなたは「優遇」されている)、そんなあなたは差別されても仕方ない」を反映したものだ。
 
 被災者をめぐって起こった悲惨ないじめは、誰かを排除せずにはいられない社会の闇をあぶり出す。その闇は、閉鎖的で非流動的な空間でより深くなる。学校という、周りの光が入らない閉鎖的な空間の中で「みんな仲良く」というタテマエを押し付けられた生徒や教師たちは、「仲良く」なるために特定のターゲットを絞って排除し、仲間としての結束を固めようとするからだ。

画像はイメージです
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 「いじめが増えている」「昔よりも陰湿になっている」「ネットのせいでいじめがより過酷になった」こんな言説をよく耳にするが、そうだろうか。昔も今も、何らかの暴力によって、集団が特定の個人を排除しようとする行為はあった。昔の学校現場で「暴力」とか「恐喝」などと呼ばれていたものが、80年代に「いじめ」へと名前を変えただけである。誰かが誰かを精神的、肉体的に追い詰める「いじめ」は常にそこにあった。
 
 さらにいじめの発生件数は、統計調査の質問の仕方や、学校、行政がいじめをきちんと把握しようとしているかどうかによっても違ってくる。今から10年前には、熊本県でのいじめ認知件数が全国1位となり、教育長が「(いじめの認知件数1位は)恥でも何でもない」と発言して注目を集めた。最小値の鳥取県と24倍もの差があったのは、熊本県がいじめの調査を熱心に行ったからだ。
 
 ちなみに2013年には京都府が1位で、最小値の佐賀県とは200倍近い差がついている(調査主体は文部科学省)。このように自治体の取り組み方ひとつで、いじめの件数は大きく変わってくる。調査に意味がないとは決して言えないが、数の増減だけを見て「昔と比べて子どもの生きる環境が過酷になった」と決めつけるのは早計だろう。子どもたちの学校生活は、今も昔も過酷である。次に述べるように、学校現場の本質が変わらないからだ。
 
本の学校にはクラスという閉鎖的なシステムがあり、少なくとも1年間、ほぼ毎日のように同じ人間と顔を合わせ、無理にでも仲良くしなければならない。このクラスを廃止すれば、ある種のいじめはなくなるだろう。クラス制度は今すぐやめるべきである。いじめ研究者の内藤朝雄氏や、社会学者の宮台真司氏なども「学級制度を廃止せよ」と訴えているが、ネットでも「クラスさえなければいいのに」という声はよく耳にする。全くの同意である。
 
 思春期の生徒たちは、狭い箱の中に押し込められ、「みんな違ってみんないい」というタテマエを教えられるが、そのタテマエが必要なのは、ホンネが全く違うところにあるからだ。みんな個性を尊重して仲良く、なんて、閉鎖的なクラスのなかでは無理である。たとえ気が合い仲良くなった者同士でも、毎日、毎日顔を合わせればケンカくらいするだろう(情熱的な恋愛結婚を経た夫婦だってケンカはする)。気が合わない者同士、バックグラウンドが異なる者同士、分かり合えないこともある。
 
 にもかかわらず、閉鎖的なクラスの中で、生徒たちは「みんな仲良く」というスローガンを現実のものとしようとしてしまう。仲良くすることを「誰とも衝突してはいけない」と解釈してしまう。衝突を恐れる児童・生徒たちは、周りの光が入らない真っ暗な箱の中で、浮かないように、誰からも嫌われないように、行動を微調整しはじめる。

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 そもそも「みんな仲良く(そして平等に)」なんて、大人社会での嫉妬や暴力、差別の跋扈を見れば不可能なことはすぐ分かる。それでも生徒や教師たちは、「仲良し」の一体感を感じようとするから、特定のターゲットを絞って排除し、かりそめの「仲良し意識」を得てしまうのだ。その手段がいじめである。いじめで得られる「仲良し」意識や一体感などいらないから、クラス制度は廃止し、大学のように単位制にすればよい。
 
 次は多くの反論が出そうな提案である。学校は馴れ合いの人間関係を身につける場ではなく、勉学を探求する場だということを徹底させるのだ。すなわち「みんな仲良く」のクラスを廃止した上で、定期的に学力テストを実施し、習熟度別のクラスで科目間を移動するような仕組みに変える。
 
 いじめの件数で最も多いのは「中学1年」だ。これは、小学校からの人間関係が一度崩れ、新たに「仲良く」できそうな相手やグループを探すストレスが関係している。さらにいじめの件数は、そうした人間関係が定着する6月や、学校行事などが集中する2学期に増える傾向にある(調査によって多少の違いはあるが)。
 
つまり多くのいじめは、閉鎖的なクラスの中で、人間関係のストレスが顕在化する時期に起きている。一方で、受験を控えた中学3年でのいじめは相対的に少ない。これは高校受験を見据え、生徒たちが「高校での生活」に準拠し始めるからだろう。ここではない、次のステージでの可能性があることが感じられれば、今の人間関係で馴れ合わなくてもいい。生徒にとって、少し先の未来が感じられるのは、真っ暗な箱が少し開いて、上から一筋の光が差し込んでくるようなものだ。

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 中学3年は受験勉強のため、周囲の友だちが「ライバル」に見えてくる時期でもある。この時期にいじめが減ることから、勉強という目的はいじめの減少に有効である可能性がある。仲良しのお友達でなくてもいい、むしろ勉学のライバルとして付き合ったほうが、いじめは減るのではないか。



 同じことが部活でもいえる。ただでさえ閉鎖的な学校空間のなかで、さらに閉鎖的な「部活動」なる集団にも所属しなければならないこと、その集団での人間関係のストレスは、いじめにつながる。部活動で人格を育むのはいいが、何も学校ですべてまかなう必要はないだろう。学校を閉鎖的な空間でなくするためにも、地域との連携を密にし(その地域が崩壊していれば問題も出てくるだろうが)部活動くらいは外に開放すべきである。



 高校野球での暴力問題が毎年のように問題になるが、狭い人間関係、上下関係しかないとなれば、大人も子どもも、一部はいじめに走ってしまうのだ。課外活動を部活として認めれば、1日中狭い人間関係の中で閉じ込められ、闇を深くすることはない。
 
 クラスをなくし、学校を「勉学の場」と明確に位置づける。習熟度別のクラスは、できるだけ少人数がのぞましい。それには、科目ごとの教員の増加などコストもかかるだろう。さらに、これらの処方箋がもし実現しても、いじめがゼロになることはない。何度も述べているように、いじめは大人社会の排除のメカニズムが、子どもの社会に反映された行為だからだ。
 
 それでも、いじめの温床である閉鎖的な空間を少しでも外へ開くことができれば、今、いじめに苦しむ子どもたちや、次は自分がいじめに遭わないか汲々として「空気を読み合う」子どもたちには、一筋の希望の光が見えるのではないかと思う。