いじめニュース速報@イジ速

いじめ事件 ・イジメ ニュースを発信中!スマホいじめが増加!子供達をいじめから守ろう!

「いじめ」多発にもかかわらずなぜ?不可解!

首尾一貫した隠蔽工作

茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件に関する市教委の行動を、「いじめがあった」とするのに役立つものと、「いじめがなかった」とするのに役立つものに分類すると、そのほとんどすべてが「いじめがなかった」とするのに役立つタイプになる。

逆に、通常であればしてもおかしくない行動のなかで、「いじめがあった」とするのに役立つ行動はことごとく選択されていない。

「いじめがあった」ということになりそうな調査を強いられる(あるいは、そうなることが予測される)場合は、調査の検出効力を最大限弱める努力がなされる。

さらに、これらの行動群の組み合わせに関しても、「いじめがなかった」とするのに役立つように、前の行動が後の行動の布石となっている戦略的コンビネーションを見出すことができる。

偶然の一致とはとうてい考えられない、上記のいちじるしい行動の偏りと組み合わせが、市教委の行動原理をくっきり浮き彫りにしている。教委の行動群は「いじめはなかった」と社会的現実を改変するための合理的戦略行動(隠蔽工作)として首尾一貫しすぎているのである。

さらにこれらは、嘘をつく、隠蔽する、誘導する、知らせない、調査の正確性を意図的に毀損する、といった職務に関する背任行為を多く含んでいる。

「いじめはなかった」とすることだけでなく、全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている。

教委は利害損得によって行動しながら、なんとでも言える〈教育〉的なストーリーから都合のよいものを巧みに選択して「いいわけ」に用いている。

以上のことを報道に即して説明しよう。

教員はいじめを知っていた…?

中島菜保子さんの自殺直後、学校と市教委は、生徒に「思いがけない突然の死」と説明して自殺を隠蔽した。書類には「事故死」と嘘の記載をしている。しかも生徒の証言によれば、すでにこの段階で一部教員は「いじめはなかった」とのアピールをしている。

学校が熱心に遺族にしたことは、自殺でなく「不慮の事故」にしてほしいという依頼だった。学校は保護者会を開かないことにし、警察に口止め工作をし、これを市教委に報告した。

市教委と教員は――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(わかるはず)であるという観点から――菜保子さんの日記を読み、「くさや」と書いてある付箋紙を見た時点で、いじめがあった可能性が高いことを知ったとみなすことができる。

さらに以前からいじめについて教員に話をしていたという同級生の証言にしたがえば、一部教員はいじめを菜保子さんの自殺以前から知っていたことになる(『週刊文春』2017年6月15日の記事によれば、担任教員自体が実質的にいじめグループの一員であった可能性がある。知らないはずがないともいえる)。

なぜ自殺は隠蔽されたか

 

自殺といじめにふれない調査の不可解

ここで、次のような仮説を立てることができる。

すなわち、自殺直後の段階で、学校と教委は菜保子さんへのいじめがあったであろうと考え、だからこそ、今後いじめ調査をしなければならなくなるときに備え、自殺の隠蔽を行った。

事前に自殺といじめを隠し、大多数の生徒を何も知らない状態にしておいたうえで、来たる調査でいじめを話題にしないでいれば、いじめがあったという証言は少なくなるはずである。

一部教員が「いじめはなかったですよね」とアピールしたのも、いじめを知っていて後に責任をとらされるかもしれないのが不安だったからではないか。

教委側の立場にたっていえば、案の定、遺族は調査を要求してきた。断ることはできない。ここにきて自殺直後からの、多方面への自殺の隠蔽、いじめ無視が、いじめをなかったことにするための有利な条件として効いてくる。

学校と教委は、アンケートと面接の双方で、自殺といじめにふれない調査をおこなった。

市教委は、面接調査で用いざるを得なくなったと思われる付箋紙から「くさや」の文字を消してコピーしたものを置いて調査をした。

「くさや」の文字がなければ市販の付箋紙の意味が生徒たちにわかるはずがないということを――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(りょうかいかのう)であるという観点から判断して――、教委は知っているはずである。

意図的に付箋紙が記憶のカギになる効果を失わせる加工をしつつ、付箋紙を用いた調査らしいことを形だけしたことにする、というのが最も整合性のある解釈である。

公務員による露骨な背任行為

報じられた生徒の証言によれば、このとき、教委はいじめについて質問せず、「お母さんは厳しかったの?」といった誘導を積極的におこないながら家庭の事情について質問した。

また市教委は、生徒がいじめについて証言しても無視し、証拠を手渡そうとしたらその場で突き返した。当時学校は同級生の保護者に、菜保子さんが自殺した理由について「家庭の事情で」と嘘の発表を行ったという。

これらが報道どおりであるとすると、公務員による露骨な背任行為といえる。

遺族が第三者委の設置を要求すると、教委は上記の不正な調査を用いて、事務局として「いじめはなかった」との判断を示し、「重大事態に該当しない」と議決したうえで、第三者委の設置を決定する。第三者委のメンバーは5人中4人が地元茨城県の専門家である。

生徒の証言によれば第三者委はいじめのことはごくわずかしか聞かず、家庭のことばかり聞いてきたという。

そればかりでなく、ピアノの練習が厳しいから死んだというストーリーへの露骨な誘導を行ったと生徒に感じられ、「なんでそんな話になるんだ」と反感を持たれるありさまだった。

また調査委は最初遺族を無視していたが、それを文科省に訴えられてはじめて遺族に質問を開始し、そのときにも家族状況に関する質問ばかりし、いじめの質問はしないのかと問われると、教委の調書があると言う。

市教委にとって真実に意味はない

 

巨大すぎるバイアス

父は、第三者委の調査は、家庭に問題があったというストーリーを固めるための中立性を欠いた調査であると判断し、文科省に調査の中止と調査委の解散を訴える。

文科省の指導が入り、第三者委解散が決定されると、第三者委は、報告書については、新たな委員会にバイアスをかける(予断を与える)ことになるので、調査資料は全部消去すると決めた。

これも、以前の行動と照らし合わせると辻褄があわない。生徒の証言によれば、聞き取りではいじめのことをわずかしか聞かず、家のことに偏った質問をしていた。遺族に対する調査も同様のものであった。

遺族には、いじめについてのソースは教委が調べたものしか使わないという。これは桁外れに大きいバイアスである。このように調査委は、本務ともいうべき調査活動で巨大なバイアスを入れておきながら、資料を消去するためのいいわけとしては、ほんのわずかのバイアスを気にするしぐさをする。

資料をあつかう専門家であれば、資料批判を当然の前提として、なるべくたくさんの資料を集め、自身の観点で評価しポイントを取捨選択する。それを考えれば大したバイアスにはならない。ある意味、バイアスがあるから消去するというのは、後続の専門家に対して失礼な行為でもある。

つまり第三者委は、聞き取り調査をするときは専門家としては考えられないような大きなバイアスを生む方法を用いながら、資料を消去するときはとるにたらない些細なバイアスを理由にしている。

上記2時点のバイアス感度が極端にかけはなれていて、辻褄があわない。

文科省の指導を受けた教委は、自分たちの利益のためにいじめはなかったと主張してきたのを、文科省から圧力を受けると同じ利害計算により、手のひらを返したように、そのストーリーを固める作業をあきらめる。

つまり、強者(文科省)からの圧力を、「いじめはなかった」とすることから得られる利益を上回るリスクとして計算に入れると、長期間主張し続けた「いじめはなかった」という判断を一晩で撤回する。

強い方にしたがうだけ

ここからわかるのは、いじめを隠蔽することだけではなく全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている、ということだ。

さらに、市教委が真実、あるいは真理というものを、どのように扱っているかを見てとることができる。市教委にとって「ほんとうのこと」は意味がないのである。

あるのは、利害と技術と上下関係が混合した職業上の生活様式だけである。このように考えると、市教委の行動様式を明確に理解することができる。

その行動様式を露骨に示しているのが、テレビで放映された教育部長の言動である。

それが真実であるかどうかではなく、強いもの(文科省)に言われると即座に従い、いじめがあったのかなかったのかという真実(ほんとうのこと)に関する判断を簡単にひっくり返したのはなぜかという質問(真実を尊重する立場であれば当然気になる質問である)には、怖い顔をして「あえていいわけはしません。弁解する気もないので」と言う。

この言葉の意味は、真実をめぐる対話には答えない、力と力のぶつかりあいで強い方にしたがうだけだ、という本音であると理解できる。

力と力のぶつかりあいのなかで、都合のよい意味づけを成功させる戦略として、とってつけたような〈教育的〉ないいわけを饒舌にくりかえしてきた市教委にとって、真実のありか(ほんとうのこと)を主題とする質問に答えることの方が無意味な「いいわけ」なのである。

内申制度は廃止せよ

 

教育委員会に真理はない

 

おそらく教育委員会自体が、そのような上には卑屈、下には尊大で、真実は無意味、力関係とそれに応じた欺瞞のアートがすべてという職業的生活習慣の上に運営されてきたのであろうと考えられる。

一言でいえば、教委に真理はないのである。

力関係のなかで利害損得に従って仮象をはりあわせて演劇的に生きる者に、記者は手練手管とは別の真理(ほんとうのこと)という生活習慣によって応答することを求めた。強者である文科省であれば、何を要求されても教委はひたすら平伏する。

しかし、たいして強者とも感じられない記者からそのようなことを要求されると、教委は怒る。教委は、教育的な仮象をはりあわせるいいわけを繰りかえしてきたし、これからもそうするであろう。

しかし、真理を要求されても、生活習慣上、真理の言葉など出しようがない。別種の生き物のしぐさを要求された動物のように、怒りしかでてこない。相手がムチを手にした(と教委が思う)文科省であれば必死で真理のふり(もっとも苦手な芸)をしてやってもよいが、たいした強者でもない記者ごときに、そんな芸当はしてやらない。

これが、怖い顔をして「あえていいわけはしません。弁解する気もないので」と言う教委の真意(非真理の反応)である。真理の言葉こそが、教委にとって最も意味のない「いいわけ」なのだ(この考察に際しては、哲学者ニーチェの著作群を参考にした)。

〔PHOTO〕iStock

学校制度の有害性

ところで、このような世界の住人たちが、学校で道徳教育をし、情意評価で成績をつけ、高校入試の内申点によって生徒の将来を左右している。

こういう者たちに、生徒はへつらって生きるしかない。こういった学校制度の有害性が社会問題にならないのが不思議である。

「内申や推薦や情意評価といった制度は、卑屈な精神を滋養し、精神的売春を促進し、さらに課題遂行という点では人間を無能にする」(拙著『いじめの構造』)。

教員に生徒の態度や道徳を評価させ、成績をつけさせると、醜悪きわまりない人格支配が蔓延する。

特に「おまえの運命はおれの気分次第だ。おれはおまえの将来を閉ざすことができるんだぞ。おれのことをないがしろにしたら、どういうことになるかわかっているだろうな」という高校入試の内申制度は、青少年の健全育成にとってきわめて有害である。即刻廃止しなければならない。

信じがたき陰惨な行為

 

つくられたストーリー

話を元に戻そう。

教委が用いるストーリーやいいわけは、利益追求のために都合良く貼り付けられる。

さまざまな時点の言動を照らし合わせることによって、その特質があきらかになってくる。

ここで、教委が遺族に行ったことを観測のための一つの定点とすることができる。生徒の証言によれば、学校は同級生の保護者に、自殺の理由について「家庭の事情で」と発表した。

教委による聞き取りと、第三者委の聞き取りの双方で、いじめについての質問をしない(あるいはほとんどしない)で、「家庭の問題」というストーリーへの露骨な誘導をともなう質問を繰りかえしていた。

これらの行動は、「いじめはなかった」ことにしたい自己利益のために、菜保子さんはいじめではなく、あたかも「親が厳しすぎたせいで、つまり親が虐待したせいで自殺した」かのようなフィクションをつくりだし、それを公的なものとして固めようとする政治的な行動であると考えるのが最も整合的で自然である。

筆者は報道された同級生と遺族の証言から、以下これを前提に論を進める。

極端なまでに辻褄があわない

遺族はわが子を失い、その直後から、教委・学校関係者が一丸となって「親が虐待したせいで子が自殺した」という社会的現実を、同級生たちが証言するような中立性をいちじるしく欠いた調査によってつくりだしていく。

これは、愛するわが子を失った遺族に対して、これ以上の残酷なしうちがないと言ってもよいような非道な行為といえる。

市教委が手を染めたのは、寄り添いとか、信頼とかが問題となる次元を超えた、いじめの隠蔽から得られる利益のためには両親の人間の尊厳をくつがえす、いわば遺族を虫けらあつかいするような行為である。教委が遺族にしていたことは、けたはずれに陰惨な行為といえよう。

また、いじめを無視し、家族の落ち度ばかり拾おうとした調査は、意図的かつ極端なまでに調査の中立性を破壊して利益追求を図ったものであるといえる。

その同じ教委が、文科省から指導を受けて立場が悪くなった2017年6月9日の市議会で、「調査委員会の中立性を重視するあまり、一番寄り添う必要のあったご遺族の意向を聞くことをせず、さらに苦しめることになった。慚愧(ざんき)に堪えない」と発言している。

この発言と最初に遺族にしていた陰惨な行為とは、極端なまでに辻褄があわない。この2時点間の言動の極端な食い違いから、次のように考えることができる。

 

オウム真理教と同じ?

教委は、遺族のことを「一番寄り添う必要」がある存在と思っているはずがない。

「慚愧に堪えない」はずがない。当時教委は、いじめをなかったことにするのにやっきになっていて、調査の中立性を率先して破壊していた。中立性を重視していたとは考えられない。

市議会での発言は、利害情況に応じて組み立てたいいわけであるとわかる。

まず利害があり、それに応じて〈教育〉の世界で多用されるストーリーのなかから便利な素材が選び出され組み立てられる。

これは、オウム真理教の教祖が、教団にとって都合の悪い人物を殺害することを命じるときに、魂を高いところに引き上げてあげるのだと意味づけたり、性的な劣情にかられて教団内部の女性と好きなように性交することを、ヨーガの修行を助けてあげていると意味づけたりするのと同じである。

しかし、決定的に違うところがある。オウム真理教の教祖のいいわけは社会からまったく受け入れられないが、教委や学校関係者のいいわけは受け入れられてしまう。

〔PHOTO〕iStock

教育に侵食された日本社会

これは、私たちの社会に、教育に関しては、他のジャンルであれば許されないようなことを、あたりまえと感じて受け入れてしまう思考の習慣がいきわたっているからである。

教委や学校関係者はそれにつけこんで、他の業種であればとうてい許されないようないいわけを通してしまう。私たちの社会自体が、教育という阿片におかされているのである。

重要なのは、特定の教委がどうであるということではなく、その類のものを受け入れてしまいがちになる(教育なるものに侵食されがちな)日本社会のありかたである。

www.ijime-a-true-story.com