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隠ぺいする教師、教育者が必ず口にする「異常な論理」

ここを変えねば、いじめは消えないのに…

何度でも伝えたい「いじめの構造」

逃げることができず、どこまでも追い詰めていくいじめ。生徒を「生徒らしく」するためだけの、些末でしつこい内部規則。いつも周囲の空気を気にして過剰同調し続けなければならない集団生活……。

学校という囲い込み施設の有害性は、何十年も社会問題になっているが改善されない。

学校や教育の世界を聖域扱いし、それを「あたりまえ」と思いこむ習慣が一般大衆に浸透しているからである。

そして、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうためでもある。

本の学校、特に中学校の全体主義ぶりは、北朝鮮によく似ている。個人の市民的自由を奪い、人間を頭のてっぺんからつま先まで集団化してしまう。私たちは、学校や教育についての「あたりまえ」の感覚によって、そのことが見えなくなってしまっている。

日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」で、筆者は次の単純明快な正解を示した。

現状分析:①外部から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、②強制的にベタベタさせる生活空間が、いじめを含む残酷と理不尽を蔓延させ、エスカレートさせている。

有効な対策:①反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会の秩序で運営させる。②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。

このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)で詳しく論じた。

主題のすりかえが起きている

日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動」から今回まででは、茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件と、それを隠蔽しようとしたと考えられる教育委員会のふるまいをもとに、次のことを行う。

①教委のふるまいとそれに対するメディアの反応を分析し、市民社会が教育に侵食され、別の種類の教育的な「あたりまえ」がまかり通ってしまう現状を示す。

②学校制度が強いる集団生活の中で、いじめ被害者が破壊されていく構造的なしくみを分析し、「閉鎖空間設定責任」という新しい考え方を提唱する。

これまで、いじめ自殺を隠蔽しようとする教委のふるまいを次のように分析した。

まず教委にとっての利害損得があり、それに応じて教育的なストーリーのなかから都合の良い素材を選び出し、いいわけとして組み立てる。

それは、オウム真理教教団が利益を図って行う殺人に、「ポア(魂を高いところに引き上げる慈悲の行い)」という宗教的な意味づけをするのと同じである(「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」)。

だが、オウム教団とは異なり、教委や学校関係者による意味づけは、人びとが教育を特別扱いする思考習慣に支えられて、社会に受け入れられてしまう。

そのため、教委や学校関係者(生徒や教員、校長など)は責任を問われることなく、通常ならば処分・処罰される行為をやりたい放題になる。

このとき、主題のすりかえが生じている。

つまり、教委や学校関係者が引き起こす悪や残酷に対し、何が問題であり、どうすれば適切に対処したといえるか、という<問いと答えのセット>そのものが、社会正義を主題とするものから教育を主題とするものへと、すりかえられている。

「信頼」ではなく、チェック機能を

今回の事件では、教委はいじめの隠蔽工作に手を染めていたと考えられる(くわしくは前回および前々回を参照)。これは、公共団体幹部グループによる重大かつ悪質な背任行為である。相応な処分は懲戒免職しか考えられない。

さらに教委によるこの背任行為は、遺族に対しては、名誉毀損(虐待デマの流布)や、これによって非人道的な精神的苦痛を与えた(虐待デマが子を失った遺族に対するものであることを考えてみよ!)可能性も含めて追及されるべきものである。

だが報道によれば、教委は処罰も処分も受けず、記者会見で「被害者によりそい、信頼を回復しながら次に向かっていくよう努めます」と語る。メディアも「不信」「信頼の危機」「信頼回復」といった報道を繰りかえす。被害者も「信頼が失われた」と語る。

メディアでは、「信頼を取り戻すにはどうしたらよいか」といった教育の問題へ主題がすり替わった。教委幹部たちは不正行為を行ったかどうかを追究されず、不信をまねいた過誤によって非難されるだけの人となった。

何か問題が生じたときに、合い言葉のように口に出される「教育(教委、学校)への信頼」が、社会正義によるチェック機構を働かないようにする。そして、教委や学校関係者の不正や残酷を免責し、教育関係者はどんな非道をはたらいても責任を問われないという事態を生み出す。

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教育委員会や学校は、たとえば土建会社のような他の職種と同じものとみなさなければならない。

土建会社が談合や政治家への賄賂をしないと期待できるのは、社会正義の制度による厳しいチェック・システムがある場合だけである。土建会社が土建会社であるというだけの理由で土建会社への信頼を要求するような習慣は有害である。

それとまったく同じで、教育関係者が教育関係者であるというだけの理由で教育関係者を信頼するという習慣も、きわめて有害である(ここでは、チェック・システムが重要という一点に限って土建会社を比較対象にした)。

子どもを守るためには、そのような信頼をなくさなければならない。

重要なのは、教育(教委、学校)への信頼ではない。社会正義のしくみを確かなものにすることだ。

私たちの目標は、教委幹部も教員も生徒も悪をしたくてもできなくなり、そのうち大部分の人が悪をなそうとも思わなくなり、善人になってしまうような、うまくまわるシステムをつくりあげることだ。そのうえで、うまくまわっている程度に応じてそのシステムを信頼すべきなのだ。

信頼できるチェック・システムという観点からは、いじめを隠すと得をする利害当事者である教育委員会が、いじめ調査委を設置することを、即座にやめさせなければならない。これは暴力団が警察を設置するようなことだ。

「被害者によりそい、信頼を回復しながら次に向かっていくよう努めます」といったたぐいの教委の発言には、被害者を害しておきながら、きずな・よりそい・信頼関係をまくしたてるストーカーと<同じかたち>のおぞましさがある。

恐怖の「教育的ストーカー」論理

これまでの経緯を約すると、遺族は「あなたたち教委のことは信頼しない。もう関わり合いになりたくない。あなたたちは、私たちが虐待したから子どもが死んだというデマをまき散らして、いじめを隠蔽している」と訴えている。

これに対し、不正や加害をなしたと考えられる教委は責任をとろうとせず、「おれはおまえたち遺族との信頼を回復するぞ。教委(教育)への信頼を回復するのだ。おれはおまえたち遺族によりそうぞ」という内容の教育的ストーカー論理を、議会や記者会見で堂々と口にしているのである。

もちろん教委は、自己利益のために、遺族をどこまでも虫けらのように扱ってきた(教委が遺族をどのように扱ってきたかについては、前回前々回を参照されたい)。

報道をみるかぎり、教委は本物のストーカーとことなり、ほぼ100%損得勘定で動いていると考えられる。乾いた保身のために利用する教育の論理が、べとべと粘りつくストーカーの論理と同じ形をしているのだ。

この乾ききった保身の利害計算と、粘りつく教育的お涙頂戴芝居をつなぎ合わせるコンビネーションは、もはや教育関係者の職能にもなっている。

なぜ校長は泣くのか

取手市のケースとは別であるが、このことを示す一例をあげよう。

いじめ調査の第一人者ともいうべき探偵の阿部泰尚によれば、校長たちは、不都合なことを表沙汰にしないでほしい、責任をのがれたい、という意向を暗に伝えるための<芸>として泣くことが多いという。もちろん、泣いても不誠実であることは変わらない。

阿部は次のように述べる。

「それにしてもなぜ校長先生という人たちは、あんなにも頻繁に人前で泣き出すのだろう。私の経験から言うと、依頼者である親御さんにいじめの調査資料を突きつけられた段階で、4割ぐらいの校長が泣き出す。特に警察沙汰になりそうな事案では、泣き出すことが多い。

(略)彼らが本気で泣いているとは思えない。(略)ことを荒立てないで欲しい。(略)穏便に事が運ぶように計らって欲しい。それを暗に伝えるために泣いている。というか泣いて見せる。…。校長が泣いた後でも実際に何もしない学校が多い」(阿部泰尚『いじめと探偵』p.p.168-171)

私たちの社会では通常、正当性が問題となるやりとりにおいて、責任ある立場の者が不祥事に目をつぶってほしいと泣くことは、否定的に扱われる。場合によっては嘲笑のまとになりかねない。泣くことは利益にならないので、多くの人はやらない。

不祥事を表沙汰にしないでほしいときに校長が泣くことが驚くほど多いとすれば、それは功を奏する見込みが大きいからである。

すなわち、「ここは教育の場である」と感じられる状況では、通常の公共的秩序が崩れて、不祥事隠蔽のために泣くことが功を奏するような別のタイプの秩序にとって代わられているということである。校長はそこにつけこんで泣く。

ここで重要なことは、私たちの社会がどうなっているかということだ。

この社会は、教育に侵食され穴があいている。不祥事でも校長が泣けば許される穴。教育によって市民社会のルールと人権が否定される穴。教育であれば暴力や全体主義が許される穴。

この穴が広がるにつれて、社会が別のタイプの不健全な秩序に飲み込まれてしまう危険が大きくなる。

「教育」なら何でも許されるのか

この穴がどれほどのものか、マス・メディアの報道スタイルから考えてみよう。

以下の思考実験が示すように、報道は、私たちの社会がどのような状態にあるかを示す指標として用いることができる。

もし、マス・メディアが先述のポアといういいわけを真実とみなし、「過度のポア」「行き過ぎたポア」と報道したとすれば、それは、私たちの社会がオウム真理教にひどく侵食されていることのサインであるといえる。

また、マス・メディアが暴力団による暴力犯罪を「過度の任侠」「行きすぎた任侠」と報道したとすれば、それは、私たちの社会が暴力団にひどく侵食されていることのサインになる。

もちろん、このような思考実験上のシナリオは、現実にはありえない。しかし、こと教育に関しては、このようなことは、あたりまえに起こっている。

NHKのドキュメンタリー番組『クローズアップ現代 なぜ続く〝いじめ自殺〟~こどもの命を救うために』(2017年7月18日放映)は、取手市教育委員会によるいじめ隠しを、背任行為ではなく、「過度な配慮」「行きすぎた配慮」と報道した。

このことは、上で述べた思考実験上のシナリオが実際に起こったと仮定した場合と同程度のひどさで、私たちの社会が教育に侵食され、市民の秩序が破壊されていることを示している。

このような、教育であれば何でも許されるタイプの報道は、これまでも繰りかえされてきた。「教育熱心のあまり」の「行きすぎた指導」と、あたりまえのように。

さらに教員による暴力犯罪は、「体罰」と呼ばれるので、被害者の方に何らかの「罰」を受けるにふさわしい落ち度があり、それに対して加害者が「教育熱心のあまりの行きすぎた指導」をしてしまったというストーリーで認識されるようになる。

そして、「先生がここまでやらざるを得なくなるぐらいなのだから、よほど困った生徒なのだろう」と暴力被害者の方に否定的な感情がむけられるようになる。

こうして「体罰」という誤称によって、教員からの暴力被害者は、レイプ被害者のように二重の被害をこうむることになる(ジャーナリストは、このような二次被害が生じるのを避けるため、教員による暴力犯罪に「体罰」という語を用いるのをやめなければならない)。

このようにメディア報道を指標として、私たちの社会が教育によって侵食され、市民の秩序が破壊されていることを見て取ることができる。

さらにこの『クローズアップ現代』の後半は、いじめの基本を外した相談系、受け止め系、教員の心がけ系の、無意味な対策の羅列である(上記NHKサイトを参照)。

無意味なことを、いじめ対策と称して意味ありげに並べ立てるのを見ると、そこまでして閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる特殊な学校制度を維持したいのかというのが正直な感想である。

「異常な論理」が「あたりまえ」に…

なぜ、極端な集団主義で悪名高い異常な日本の学校を、せめて先進諸国グループの普通の学校程度に変えるぐらいのことを、誰も提案しないのか(いじめは世界中どこにでもあるが、追い詰められる程度が格段に違ってくる)。

それは、番組を制作する側も含めて多くの人びとが、異常な学校の「あたりまえ」を常識として疑うことなく信じ込んでいるからだ。

また、この番組をつくった人たちは、いじめの主役は加害者の群れであり、加害者を抑制しなければ意味がないことを理解していない。「気持ちを受け止める」相談のあと、あいかわらず加害者に痛めつけられて自殺するということは、いくらでもある。

加害者を制止するか、被害者の生活圏から排除することができなければ、相談など無意味なのだ。学校を、法によって個人が守られ、加害者との距離を自由に調節することができる市民的な生活空間にする以外に、有効な対策はない。

筆者は冒頭で、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうと述べた。

この現状に対し、多くの人たちに次の寓話を読んでもらいたい。そして新聞・雑誌・テレビでいじめ対策を目にするたびに、思い出していただきたい。

ある国では、35歳から40歳までの人を強制的に収容所の監禁部屋に閉じこめて理想の共同生活をさせることにした。そのなかで、人びとは、狭い檻に閉じ込められたネズミのように、互いに痛めつけ合うようになった。人びとを監禁部屋に閉じこめること自体不当であり、収容所から開放するのが基本である。しかし、国は監禁部屋の生活を少しでも快適で健康的なものにしようと、壁紙を三日に一回変えたり、音楽を流したり、早寝・早起き・朝ご飯を推奨したりする工夫をし、それを国民にアピールした。国民はいつのまにか、監禁部屋に閉じこめること自体を問題にしなくなった。そして、監禁部屋で35歳から40歳までの人たちが、すこしでも「マシ」な生活になるような、些末で矮小な工夫がなされたことを、あたかも問題の解決に近づく努力であるかのように報道するようになった(拙稿「インターネットを用いたいじめや迫害をめぐる諸問題」加納寛子編著、内藤朝雄・西川純・藤川大祐著『ネットいじめの構造と対処』金子書房)。

マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちがやっているのは、こういうことだ。

マス・メディアの報道は、①世に影響を及ぼすと同時に、②一般大衆の思考や感情の習慣を示す指標になっている。

制作側は、一般大衆の思考や感情の習慣にあわせて番組をつくっていると考えられるからだ。

メディアの報道内容は、日本の市民社会がどのぐらい教育的な<別の現実>に侵食され、乗っ取られているかを如実に示す。

メディアと大衆のあいだには次のような悪循環が生じる。

メディアが大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」が強化される→メディアはその「あたりまえ」にあわせて大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」がさらに強固になる。

そしてメディアは、この悪循環のなかでつくられた企画どおりに発言する識者や芸能人を選択する。企画よりも水準が高い発言をする専門家は使われなくなる。

マスコミも加担している

筆者の経験を一つ紹介しよう。

NHKの事例】
筆者のもとにNHKから出演依頼がきた。筆者はすぐに了承しますとメール送信し、スケジュールに日程を入れておいた。電子メールで送られてきた企画書には、驚くべきことが書かれていた。
「『いじめられた生徒は、なぜ話を聞いてくれる人がいないと自殺するのか?』と聞きますので、『気持ちを受け止めてもらうことが大切だから』と答えてください」。
それに対し筆者は、「話を聞いてもらえれば、いじめ被害者が自殺しなくなるなどということはありません。ひどいいじめをされて、話を聞いてもらって、その後で、相変わらず加害行為が続いて絶望し、自殺するケースはいくらでもあります。重要なことは、いじめ加害者の迫害を止めること。狭いところに閉じこめないことです」と電子メールで返答をした。
すると、まったく返事が来なくなった。放送日が迫っていたため連絡を入れたところ、「内藤さんの出演はとりやめになりました」とのことだった。
実際に放送された番組を見たところ、筆者の代わりになぜか同姓の元ボクサーが登場し、自分のいじめ体験を語った後、「いじめられている君の気持ちはわかるよ」といった心の話をしていた。

〔PHOTO〕iStock

最近のいじめ報道では、限られた報道枠になにを押し込むかが、教委の言動関連にかたよっている。今回のいじめ自殺事件についての報道も、大半は教委の言動に関するものだ。

教委の背任行為に関しては、少ない報道枠で社会正義の観点から非難し、そのとおりであれば懲戒免職にすべきではないかと報じればよいだけだ。また、背任行為に対し法的な処罰規定をもうけるべしと簡潔に報じればよいだけだ。

報道枠の大部分は、子どもたちを苦しめているいじめと、それを歯止めなく蔓延させ、エスカレートさせている学校制度の改革に割くべきだ。

メディアは最も重要な①中島菜保子さんに対する集団加害の問題を無視し、②集団加害に教員が関与していたかもしれない問題を無視し、③集団加害が蔓延しやすい有害環境としての学校の問題を無視する。

そして、教委の言動に大量の報道枠を絞ったうえで、教委(教育、学校)への信頼が危機にあるとのストーリーで報じ、一般大衆がそれを「あたりまえ」に受け止める。問題の中心が正義から信頼にズラされたことに、だれも異をとなえない。気づきもしない。

一人の女子中学生が学校のグループによっていじめ殺されるという痛ましい事件が起きたのだ。いじめ殺すとは、「さんざん苦しめ悩まして殺す。苦しめ抜いて死なせる」(『日本国語大辞典』)の意である。

社会正義という点からは、菜保子さんをいじめ殺した加害者たちにも厳しく責任をとらせることが要請される。教育でごまかすことができるような問題ではない。

また、社会正義は、このような事件が起きる有害環境としての学校のしくみを分析し改善することを要請する。

もっとも重要なことは、菜保子さんは、学校で特殊な集団生活さえしなければ、追いつめられて死ぬはずがなかったということである。

また加害者のA子、B子、C子ら(場合によっては教諭も含まれる可能性がある)も、学校で特殊な集団生活さえしなければ、他人を死においつめる怪物になることはなかったということである。

学校の閉ざされた特殊な集団生活が、あたりまえの市民生活を送っていれば死ぬはずのなかった少女を遺体にし、怪物になるはずのなかった人を怪物にしたのだ。