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原点は幼少期 父のいじめ

 

立ち食いそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第2回は終戦前後の小学校時代を語ります。

 

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 還暦を過ぎて生まれた弟に父は大喜び。血がつながった弟をかわいがる一方、私に接する態度は変わっていきました。ある日、家の近くを流れる加茂川で遊んでいたとき、足を取られ、あっという間に水の中へ。気を失った私は川下へ100メートルぐらい流されたところで、近所に住む工藤清さんに助けてもらい九死に一生を得ました。

 清さんに家まで抱きかかえてもらった私を見るなり、父はいきなり私のほおを平手打ち。よそ様に迷惑をかけたことが許せなかったのでしょう。本来なら子供が助かってホッとするのが親心。しかし、父は清さんに礼も言いません。ほおをぶたれた痛さだけではなく、涙が止まらなかったことを今でも覚えています。

 1941年、私は家から歩いて10分ぐらいの大保木(おおふき)国民学校(戦後は大保木小学校)に入学しました。体が大きくなると、父から家の仕事をやるように命じられました。川に行って風呂に使う水をくみ、山に行って薪(まき)にする木の切れ端を拾い、畑仕事もやりました。閉口したのは肥くみでした。毎月、たまったふん尿を杓(しゃく)でくみとって樽(たる)に入れ、肩でかついで300メートルぐらい離れた畑まで運び、まくのです。

 「弟も私も同じ人間。なのにどうしてこんなにも差を付けるのか」。子供ながらにそんなことを考えたこともありました。後に経営者になって、正社員とアルバイトの待遇に大きな差を付けたくない、と考えたのも、こうした生い立ちが原点にあったからです。

 どん底の幼少期だから、周囲の人たちの温かさは忘れられません。

「こき使われてばかりいると勉強も進まない。僕が君のお父さんに言ってあげるよ」。国民学校の秋山先生はそう声をかけてくれました。うれしかった半面、「やめてください。そんなことをしてもらったら、また父にゲンコツで頭を殴られます」としか返事はできませんでした。

 当時は戦争中、食糧は配給で厳しい時代でした。毎朝、ズダ袋のようなものを背負って、近所の農家に買い出しに行かされました。狭い村ですから、私が父にいじめられていることは周知の事実です。「道ちゃんが来たら、手ぶらで帰すのはかわいそう。何か分けてあげよう」と示し合わせてくれたのか、情けで土間の下に隠してあったカボチャやサツマイモなどを売ってくれました。

 終戦は10歳の夏、イモ畑になっていた校庭で迎えました。雑音だらけのラジオから流れる天皇陛下の声を直立不動で聞きました。終戦の数日前、学校で1本の三ツ矢サイダーが配られました。甘いものを口にする機会がなかった戦争中、家族4人で分け合って飲んだサイダーのおいしかったこと。このときばかりは家族だんらんのひとときを過ごすことができました。

 戦争が終わって、大保木村にできた中学校に通うことになりました。これから入学という矢先、またしても試練に直面したのです。母が私のおでこに手を当て「熱があるんじゃないの」と。診療所に行くと38度。診断の結果は結核の一歩手前の肺門リンパ腺炎とのこと。医師からは当面、自宅療養と言われ、結局3カ月も休みました。「全く体が弱くてどうしようもない」と父から吐き捨てるように言われました。