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いじめで不登校を経験したNPO副代表「学校だけが生きる道じゃない」

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いじめ問題解決へ向けた啓発や提言活動をしているNPO法人の須永祐慈さんに、その「原点」を聞きました。

いじめ問題解決へ向けた啓発や提言活動をしているNPO法人「ストップいじめ!ナビ」(東京都新宿区)。評論家の荻上チキさんが代表理事NPOで、副代表兼事務局長を務める須永祐慈さん(39)は、不登校の問題や子どもたちからの電話相談の活動にも関わっています。須永さんがさまざまな活動に取り組む原点は、小学生時代の経験にありました。

 

「僕は…先生に見放されたんだ」

 東京生まれの須永さんは小学3年の3学期、父親の転勤で福島県内の小学校に転校しました。友達もでき、しばらくは平穏な日々。「空気」が変わったのは、4年生になって担任が変わってからでした。

「子どもによって態度を変える人だったんです。スポーツができる子には笑顔、いたずらをする子にはすごく怒る。教室に『ピーン』とした緊張感がありました」

 ピリピリした教室にも、落ち着きのない子がいました。須永さんの後ろに座っていた男子。授業中、須永さんの背中を鉛筆でつつき始めました。

「ちょっとしたいたずらですけど、かまってくれるのがうれしかったんです。僕もつつき返していたら、授業中ずっと続いて。つい『うるさい!』と言ってしまいました」

 気付いた先生は「須永、うるさい!」。怒られたのは、なぜか1人だけでした。

 消しゴムのカスを頭に載せられる、座ろうとした椅子を引かれる、掃除時間中にみんなが一斉に逃げ出し、1人だけ教室に取り残される…。「ちょっとしたいたずら」がエスカレートしていきました。

 鉛筆がなくなり、体操服がなくなり、上履きも…。戸惑う様子を見て、クスクスと笑う声が聞こえました。鉛筆も体操服も上履きも少し探せば見つかる所にありましたが、そのうち、「おはよう」とあいさつしても返事がなくなりました。

「そんなに悪気はなかったのかもしれません。でも、僕の中では『独りぼっちなんだ』という思いが募っていきました」

 5月半ば、授業が頭に入ってこなくなりました。「今日は何をやられるんだろう」「どうすればいいんだろう」。そんなことばかり考え、70~80点が普通だったテストも、30点台に落ちました。

 意を決して担任に相談したこともあります。1度目は真剣に聞いてくれ、クラスメートに注意したのか、3日ほど、いたずらがなくなりました。しかし、長くは続かず、2度目の相談をしました。前よりも強く訴えました。

「『先生、僕、いじめられてます』。初めて『いじめ』という言葉を使ったんです。でも…」

 返ってきた言葉は「お前も弱っちいところを改めないとな」でした。

「僕は…先生に見放されたんだ」

 夜、眠れなくなり、食欲もなくなり、「消えたい」と思いました。6月のある日、「学校に行きたくない」と母親に言いました。

戸惑った母親から「学校の先生も『来てください』と言ってるけど、どうする」と言われ、図書室や保健室へ「登校」したこともあります。司書の先生も、保健の先生も優しい人でした。しかし、他の児童が「なんで、あの人いるんですか」と話す声が聞こえてきました。

「僕はここにいちゃいけないんだと思いました。学校に行かなきゃという気持ちはあるんです。でも起き上がれない。ある朝、布団の中で『校門見たくない! 絶対に行きたくない』と叫んでいました」

 体はすでに限界。「ぶっ倒れるような疲れ」から、パジャマを着たままご飯を食べて、テレビをボーッと見て、寝るだけの生活が続き、一歩も外に出られなくなりました。

 担任から「あなたの子育てが悪いから、不登校になった」と責められた母親も苦しみました。全国的に不登校が増え始めた時期、不登校の子を持つ親の会が、地元にもできていました。そこに両親が通い始めたことが転機となりました。

「ほかの当事者を知ることで『学校に行かなきゃいけない』『学校がすべて』という『学校信仰』に苦しんでいる人が多い、と分かったんだと思います」

 学校に行かないまま、ゆっくり休んでいいという態度を親が見せたことが救いとなりました。

「肩の力がふっと抜けた感じでした。近所の目は気になりましたが、それでも心と体を休ませることはできました」

 1990年秋、11歳のとき、父親の転勤で茨城県つくば市へ。不登校は続きましたが、少しずつ外に出られるようになりました。その頃、一冊の本に出会います。いじめで不登校になった子どもたちの体験談が書かれていました。

「こんなに苦しいのは、僕だけじゃないんだ」

 母親が買ってきた、フリースクール東京シューレ」の本。学校ではない「居場所」が見つかったのです。

 

いじめ自殺事件で取材が殺到

 1991年秋、東京都北区にあるフリースクールに通い始めました。いつ来ても、いつ帰ってもいい。漫画を読んでもいいし、授業に参加してもいいし、ぼーっと何もしなくてもいい。その空気が須永さんをホッとさせましたが、何より良いことがありました。

「みんなが集まったとき、『あなたはどう思う?』と聞いてくれるんです。聞かれること自体はとても緊張するのですが、『自分の気持ちを言っていいんだ!』と驚きました。自分の考えを尊重してくれる。そこに大きな安心感がありました」

 文化祭の会場予約、夏合宿の旅行会社との交渉なども、子どもたち主体で運営するスクール。時には、いじめらしきことも起きますが、すぐにスタッフが間に入って、子ども同士の距離を置くなど気遣ってくれました。

 その頃、不登校やいじめ問題への社会的関心が高まっていました。特に、1994年11月に愛知県で起きたいじめ自殺事件以来、スクールに取材が殺到。須永さんもインタビューを受けました。

「いじめられたとき、どう考えていたのか。どうしてほしかったのか。問われて、自分の思いが言葉になっていきました」

 7年ほど通い、フリースクールでの授業分も出席扱いとなって中学を卒業。スクールがつくった「大学」で、いじめや不登校について研究し、さらに、スクール系列の出版社を立ち上げて、いじめや不登校関連の本を出版します。講演会にも呼ばれるようになり、「自分が役立つなら」と話し続けました。その中で、ある思いが芽生えます。

「自分の経験や思いを社会で生かしたい。いじめをなくしたい」

 小学4年の時、「消えたい」と思ってから見失っていた「自分の存在意義」を取り戻せたのかもしれません。

「大嫌いだった」学校で講演

2011年秋、荻上チキさんらが立ち上げた「ストップ!いじめナビ」に参加。国や自治体への提言などに加え、学校での講演なども行うNPOでは、「体罰や厳しい校則が子どもたちのストレスとなる」「ストレスにさらされている教室はいじめが起きやすい」「いじめは早期介入が重要」などと訴えています。

 須永さんも多くの小中学校で、自身の体験を交えた講演をしています。

「学校めっちゃ嫌いなんですけど、めっちゃ行ってます(笑)僕、中卒です。しかも、中学校には一日も登校していない。そんな僕の体験談を子どもたちはしっかり聞いてくれます」

 出版社での経験を生かし、デザインや編集の仕事をしながら、NPOの活動を続ける須永さん。「今、いじめで苦しんでいる子どもたちへ、伝えたいことは」と問うと、「僕の生き方は少し特殊かもしれませんけど」と前置きした上で、こう話してくれました。

「もし、学校に行けない自分が普通じゃないと思ったら、普通じゃなくていい、過ごせる場所はいっぱいあるよ、と伝えたいですね。学校だけが生きる道じゃない、学校でも家でもない『居場所』は必ずあるからと。そして、苦しいときは『助けて』と声を上げてほしい。そして、周りの大人は、その声をきちんと受け止めてください」