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三浦瑠麗さん、部活で受けたいじめ

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東京大学の大学院を修了し、国際政治学者としてテレビ番組のコメンテーターとしても活躍する三浦瑠麗さん(38)。自身の10代を振り返る静かな口調のなかに、「孤立」や「いじめ」という言葉が出てきました。「ブリっ子」「きもい」「うざい」などの単純な言葉で、同級生を排除する。反論が許されない「話し合い」で多数派がひとりを決めつける。そんないじめや孤立を経験した当時の三浦さんには、外の世界を教えてくれる「居場所」があったと言います。今、苦しみの中にいる10代へのメッセージを聞きました。

 

 

 

三浦瑠麗さんのメッセージ
 ・ずっと続くかのように思っているその世界は、本当はとても狭くて、
  特殊な空間です
 ・好きなものを見極め、映画や本で共感力、感受性を養うことが役立つ
 ・「あんぱんおいしかった」、そんなことの中にも、生きている意味を見つけて  

 

 

「めがねざる」「きもい」転校きっかけに孤立

――神奈川県出身ですね。どんなこども時代でしたか

小学生のときに、神奈川県の茅ケ崎市から平塚市の田園地帯へ引っ越しました。兄と姉、弟と妹がいる5人きょうだいの真ん中で、狭い家の中で賑やかに育ちました。体を動かすことが嫌いなわけじゃないけれど、家の中にいる方が落ち着くタイプでした。


――過去を振り返った著書の中で、「孤立している風変わりな子」と小学生のころを表現されています

人間って、偶然のきっかけで孤立してしまうものなんです。私の場合は小2のときの転校でした。平塚に移ってからは、新しい同級生との関係がうまく作れずに悩み、悩むとよけいに「何考えているかわからない子」という評価につながってしまう。テレビを見ない家庭でクラスメートの話題に共感しにくかったことや、めがねをかけている外見などをやゆされることもあり、自分が浮いてしまうので学校に行くのが苦痛でした。


――やゆされる言葉?

めがねざる、きもい、うざい、とかいった言葉ですね。高学年になったある日、そのめがねを女の子にたたき落とされたことを覚えています。自分自身、めがねは自分と世界を隔ててしまう壁のような気がして嫌でした。

みうら・るり
1980年、神奈川県生まれ。国際政治学者。コメンテーターとして「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日)「ワイドナショー」(フジテレビ)などに出演。 ブログ「山猫日記」 http://lullymiura.hatenadiary.jp/

 

「話し合い」は反論が許されなかった

――そのまま地元の中学校に進まれたんですよね

中学ではさらに孤立を深めました。でも2年生の途中からの陸上部での経験は、孤立だけではなくて、あからさまな「いじめ」でしたね。同じ学年の女子部員たちに練習で組んでもらえなくなりました。にらまれたり、敵意むき出しの罵声を浴びせられたりすることも。

最後には、顧問の先生と彼女たちが相談して私との「話し合い」をすることになりました。そのとき先生が決めたルールは、みんなが言いたいことを吐き出し終わるまで私は何も言ってはいけない、というもの。

多数の側に置かれている人はひょっとしたら気づかないのかもしれないけれど、それは話し合いじゃないんですね。一方的なだめ出し裁判みたいなものです。リーダー格の子が「むかつくんだよ」と叫ぶように言ってから、なぜか泣いたことを覚えています。

私が与えた印象は、たぶん彼らにとっては実際嫌なものだったんでしょう。「テストの点こんなに低かった。やばくない?」と話しかけられたときに、軽いノリで「やばいね」と返した私の無神経さ、とか。

当時の私は成績がよくて大人びた子でした。その私のプライドをへし折った感覚があったのか、それからはいじめというよりも単なる孤立になりました。でも、それは解決ではなかったんです。劣位におかれるということが確定しただけで、出口はありませんでした。


――先生の決めたというそのルールには納得いかない人も多いと思いますが……。学校や部活に行かない、という道はありませんでしたか

学校はよくサボりましたが、すっぱりやめてしまうことは考えませんでした。部活動をしない生徒はほとんどいない学校でしたし、そんな場からは逃げた方がいいよ、と選択肢があることを示してくれる人もいませんでした。

希望を託していたのは、学区外の高校に進むことでした。周りの子たちが一緒に進級し、「この子はね」と噂を広められて関係を持ち越されるのはいやでしたから、時間をかけて親を説得しました。

「外」を教えてくれた本ときょうだい

――つらかったときに居場所や支えとしていたものはありましたか

本ときょうだいの存在です。親の方針でテレビはほとんど見ない家庭でしたが、父がよく図書館に連れて行ってくれました。小学生の時はナルニア国物語とかモンゴメリの作品とか。中学校ではロシア文学やドイツ文学も読みました。本の中に手っ取り早い解決策はありません。それでも、田舎に育ち、自分が置かれている場で十分な人間関係が築けなかった私にとって、本はここではない「外」を見ることができる、大切な居場所でした。

住んでいたのは自転車で駅に行くにも25分かかる郊外です。自宅の近くにある商店とお医者さんくらいが生活圏で、まるで逃げ場がありませんでした。


――きょうだいの存在のもつ意味は

年の離れた弟と妹の世話にいやされたし、姉は明るかったですね。

四つ上の兄も「外」を見せてくれる存在でした。中学生のころは、ファッション誌を見せてくれたり、好きな音楽をダビングしてくれたり。ラジオを聞く楽しみを教えてくれたのも彼でした。

生きる意味、見つけて

――10代を振り返って、思うことはありますか

孤立したりいじめを受けて、クラスメートとの関係がうまくいかないことが続くと、私が悪いのだろうか、と考えました。でも、当時はわからなかったけれど、いじめる側になんらかのいじめをする理由はあっても、いじめられる側に責任はないんです。

「理由がある」ということは責任とは一直線につながりません。犯罪ならば、「お財布が見えていたから盗んだ」「憎かったから殺した」は決して許されないこと。それと同じで、いじめには理由がどうあれ、被害者に非や責任はないはずです。


――自分を責めた時期もあったんですね……。10代のしんどい経験が、その後につながった部分はありますか

同じような被害を受けても、それぞれの受け止め方があります。私の場合は、孤立していたことに後から自分なりの意味をもたせました。自分を客観的に見ること、そのときの気持ちを表現することによって自我が育っていったという意識はあります。

――最後に、今、さまざまに悩む若者にメッセージをいただけますか

自分が置かれた苦しい世界がこれから先ずっと続くかのように思われても、その世界はとても狭くて、特殊な空間です。いまそこで愛されていないと感じていても、一生そのままとは限らない。いつか、きっとどこかで人に愛される経験をすると思います。

そのときのために、自分の内面の世界を自由に構築してほしい。好きなものを見極め、映画やドラマ、本などで共感力、感受性を養うことが役立ちます。

生きている意味はないと思う日もあるかもしれません。けれど、例えば「今日あのコンビニの店員さんに優しくした」「お昼に食べたあんぱんおいしかったよね」。そんなことの中にも、「今日」を続けていき、生きつづける意味は見つかるものだと思います。