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あってはならないこと

教員間のいじめ問題を受け、記者会見する神戸市立東須磨小学校の校長(右端)ら=10月9日、同市役所

 

ここのところ、教員の不祥事が続いている。神戸市の東須磨小学校の例はもちろん、児童生徒に対する暴言や教員による未成年者へのいかがわしい行為が後を絶たない。特に、教員による盗撮が目立っている。

 そうした事件が発生すると、教育委員会は「あってはならないことが生じた」と記者会見などで謝罪することが多い。しかし、この「あってはならない」という言い方には、ヒトゴト意識が潜んでいるように思ってしまうのである。

 普通、どんなことであれ、事件などはすべて「あってはならない」はずであるから、いちいち弁明調にそう述べる必要はない。「あってよい」事件はないのである。

 それなのにあえて「あってはならない」と述べるのは、事態が極めて深刻であることを訴えたいからなのか、あるいは、想定外の事態を招いたと言いたいからなのであろう。

 いずれにしても、学校関係者に危機意識が弱いことを露呈しているように思う。だから、「あってはならない」という言葉は、「あり得ない」ことだから対応困難だったという弁明調に聞こえてしまう。

 無論、教委担当者には、日ごろから非違行為防止に努めているにもかかわらず、想定できなかった深刻な事件が発生してしまったという無念さがあるのだろう。

 しばしば、不登校はどの子にも起こり得るといわれ、いじめ問題もどの学校でも起こり得ると注意喚起されるように、教員の不祥事も誰にでも「起こり得る」と考えた方がよい。

 しかし、教員は高い品格を有するはずだという聖職者観がいまだ託されているから「あるはずはない」行為を起こすと、「あってはならない」ことが生じたといわれるのであろう。

 実際、学校関係者は問題を起こす教員はごく一部で、多くの教員は真面目で熱心であると口をそろえる。確かにそうであろうが、そうした意識は危機意識を弱めることになる。

 よく考えると、学校は外部の目が届きにくい閉鎖的空間であるから、不祥事がむしろ発生しやすい。また、教員は未成年の児童生徒を相手にしているから、性的な事件を招く環境になりやすい。

 その意味で、「まさか」という意識を捨てて、性悪説に立って防止に努めることも必要になる。

 大麻の使用や盗撮などが、何年も前から継続して行われていたという事例がある。本人はもちろん、周囲の人たちにも危機意識が弱かったからであろう。

 これからは、教員の不祥事は「あってはならない」から「誰にでも起こり得る」という意識に変えて防止に努めることが課題になるように思う。

日本大学教授・佐藤 晴雄/「内外教育」12月10日号より】