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米津玄師、いじめ・大ケガ・自閉症に苦しむ

 

DAM年間ランキング』歌手別1位など、ランキングで33冠を達成。『紅白歌合戦』では、菅田将暉まちがいさがし』、嵐『カイト』など楽曲提供した曲が3曲も披露されるなど、2019年は“米津玄師イヤー”となった。なぜ彼は短期間でこれだけの偉業を成し遂げることができたのか。関係者たちの証言で振り返る──。

この世に誕生した瞬間からビッグだった

 代表曲の『Lemon』は、'18年の発売ながら、昨年の多くのチャートで1位を獲得。ライフスタイルの変化や音楽の多様化が進んだことで、国民的ヒットが生まれづらくなった昨今の音楽業界において、ここまで世代を超えて愛されるのは稀有(けう)だろう。

 今や彼の楽曲や名前を聞かない日はないほど、日本を代表する歌手へと成長した米津玄師(よねづけんし)。彼の原点は、四国の徳島県にあった──。

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 県庁所在地がある徳島市で'91年に誕生した米津。生まれたときは4500グラムもあったそうで、この世に誕生した瞬間からビッグだった。

 川と海に囲まれた自然豊かな町で育ったが、過去の音楽誌のインタビューによると、《今になって思い返してみると、精神的にも肉体的にも貧しい家庭だった》と語っている。母親はチラシを作る内職をしており、決して恵まれた家庭環境ではなかったようだ。

「特徴的な名前もあって、子ども時代はいじめられることも多かったみたいです。あと幼稚園のときだったかな? 遊んでいたときに人とぶつかってしまい、大出血するほど唇を大ケガして、病院に運ばれたことがありました」(実家の近所に住む住民)

 現在も唇が少し腫れているように見えるのは、その名残のようだ。この出来事は音楽誌のインタビューでも、《汚いものを見るような感じで受け入れられて(中略)自分が怪獣のようなものになってしまったんだなという感覚があったなあと思いますね》と独特な表現で振り返っている。

子どもの頃から普通の人になりたかった

 規格外のサイズで誕生したことや個性的な名前、幼少期のトラウマなどもあり、成長とともに生きていることに居心地の悪さを感じるようになった米津。

 あまり友達もおらず、休み時間などは、自分の頭の中で作りあげた架空の人物と話すことを、心の拠り所にしていたと音楽誌で語っている。

《僕はずっと普通の人になりたかったんですよ、子どもの頃から。普通ではないっていう感覚によって苦しい思いをしてきた自覚もあって》

 その違和感の理由がわかるのは、20歳のころ。

「人とコミュニケーションがうまくとれないことなどに疑問を感じて病院を訪れたところ、高機能自閉症と診断されたそうです。コミュニケーション能力に乏しかったり、こだわりが強いといったことなどが特徴の病気なので、当時クラスメートになじめていなかったのも今思うと納得です」(中学の同級生)

 当時の彼は、人とは違う自分にコンプレックスを感じながら、普通にできないということに悶々とするしかなかった。

 そんな彼が初めて自発的に行動を起こしたのが中学2年生のとき。当時流行っていた『スピッツ』や『BUMP OF CHICKEN』などのバンドに憧れ、こんな存在になりたい! と、2万円のギターを購入。仲のいい友達を誘ってバンドを結成する

「中学の文化祭ではオリジナルの曲を披露して、みんなを驚かせていました。田舎の学校なのでオリジナル楽曲を披露するような人は、米津くんたちが初めてだったと思います」(同・中学の同級生)

 当時からクリエイティブな才能の片鱗(へんりん)を見せつけていた。しかし、高機能自閉症による影響もあり、バンド仲間に自分がやりたいことをうまく伝えることができず、高校に入学してから自然消滅の形で解散してしまう。

 そんなときに出会ったのが、動画配信サービス『ニコニコ動画』だった。高校在学中にニコ動を知った彼は、当時のバンド仲間で現在もサポートメンバーとして彼を支える男性に作曲した曲を演奏してもらい、音源を投稿するように。

 1か月に3曲投稿することもあり、その世界にのめり込んでいった。インターネット上に居場所を見つけたこともあり、学生時代にはすでに音楽で食べていく覚悟を決めていたようだ。

“将来、絶対に売れてみせるから写真は残したくない”と学生時代から周囲に言っていたのは有名な話。メジャーデビュー前からセルフプロデュースに長けていて、取材を受けた際は自分で写真チェックをするほど、こだわりが強かった」(音楽ライター)

ひとりで楽曲制作を始めたものの、バンドへの憧れは捨てきれず、バンド仲間を見つけるために高校卒業後は大阪にある美術系の専門学校へ進学する。しかし、そこで結成したバンドでもうまくいかず……。そんなときに、ヤマハが開発した音声合成技術『ボーカロイド』に出会う。

「リアルな歌声を合成するためのソフトウエアで、この技術を使用したキャラクターボーカル初音ミクなどを使って、制作した楽曲を歌わせる動画がブームになりました」(同・音楽ライター)

自分の周りには支持者はひとりもいない

 米津も『ハチ』名義でデビュー作『お姫様は電子音で眠る』を'09年5月にニコニコ動画上で発表。その後も動画が次々とミリオン再生を達成するなど、ボーカロイド界のトップクリエイターとして、その名が知られていくことに。

SMAPなどへの楽曲提供で知られる音楽プロデューサーのヒャダインさんもニコニコ動画の出身です。動画投稿サイトの普及で、才能さえあれば年齢や住んでいる場所など関係なくチャンスがつかめる時代になった。

 20年前なら、米津さんのような地方出身でコミュニケーションが上手でないタイプは世に出ることはなかったと思います。デジタル時代だからこそ誕生した“時代の寵児(ちょうじ)”ですね」(レコード会社関係者)

 ボーカロイド界では頂点を極めたものの、《画面の向こうには支持してくれる人はいたものの、自分の周りにはひとりもいない》と音楽誌で吐露し、身近な人たちを喜ばせられないことに疑問を感じ始めていた。

 これでは意味がないと気づいた彼は、これまで築いたものを捨て本名の“米津玄師”として活動することを決意。これが国民的歌手への序章となっていく……。