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日本の学校は地獄?

いじめ問題、変わらぬ構造

いじめによる生徒の自殺が、次々報じられている。

学校でおきる残酷なできごとも、その報道のされかたも、同じことが繰りかえされているとしか言いようがない。

いったい、何がどうなっているのか。どうすれば解決できるのか。

まずは単純明快な正解を示そう。

本の学校制度は何十年も変わっていないのだから、不幸な結果の生じやすさも同じである。学校制度を変えるほかに、有効な手立てはない。

しかし、いじめを構造的に蔓延・エスカレートさせる学校制度の欠陥を、メディアは問題にしない。

本の学校は、生徒を外部から遮断した閉鎖空間につめこみ、強制的にベタベタさせるよう意図的に設計されている。これは世界の学校のなかで異常なものである。

生徒を長時間狭い場所(クラス)に閉じこめ、距離のとれない群れ生活を極端なまでに強制する学校制度が、人間を群れたバッタのような〈群生体〉に変える。そして、いじめ加害者を怪物にし、被害者には想像を絶する苦しみを与える。

学校で集団生活を送りさえしなければ、加害者は他人を虫けらのようにいたぶる怪物にならなかったはずだし、被害者は精神を壊された残骸や自殺遺体にならずにすんだはずだ。原因は、学校のまちがった集団生活にある。

学校であれ、軍隊であれ、刑務所であれ、外部から遮断した閉鎖空間に人を収容し、距離をとる自由を奪って集団で密着生活をさせれば、それが悲惨で残酷な状態になりやすいのは理の当然である。こんな簡単なことが、教育評論家やテレビのプロデューサーたちには、どうして理解できないのだろうか。

いじめが起きていない局面でも、学校は、人間関係をしくじると運命がどう転ぶかわからない不安にみちた場所になる。

この不安(友だちの地獄)のなかで生徒たちは、多かれ少なかれ、付和雷同する群れに魂を売り渡し、空気を読んで精神的な売春にはげみ、集団づくりの共鳴奴隷・共生奴隷として生きのびなければならない。

学校は、人のことが気になりすぎて自分を失う怖い場所なのだ。

学校・教育の「あたりまえ」を疑え

 

なぜ加害者を非難できないか

報道では、いじめ加害者の責任を問うという声もない。

というのは、次のような、はっきり言葉にならないタブー感覚がただよっているからだ。それを露骨な言葉にしてみよう。するとこうなる。

たとえ法が責任能力を認める年齢(刑法では14歳以上、民法ではさらに幅が広い)であっても、中学生や高校生は人間であるまえに〈教育のもの〉であるから、それを頭越しに、法や正義や人間の尊厳にもとづいて本人の責任を問うことは望ましくない。

生徒はあくまでも教育の論理で扱うべき。学校に外の社会の価値観を入れることは、教育の敗北であり、なによりも神聖な教育に対する冒涜である。

このように、法や正義や人権よりも教育が上位の価値であるかのような感覚が、知らず知らずのうちに世に蔓延している。だから人間の尊厳を踏みにじって笑っている加害者をおおやけに非難することができない。

そのかわりテレビや新聞は、教育委員会の隠蔽体質を集中的に報道する。

これは、生徒を狭い人間関係に縛りつけて逃げられないようにする学校制度の問題、そして加害者の責任を、おおっぴらに報道できないことからくる八つ当たりではないだろうか。     

学校は変わっていない。学校と教育にかんする私たちの先入観も変わっていない。こうして学校では、人が人をおそれ、人が人をいためつける集団生活の地獄が、いつまでも続く。

ひどいことがいつまでも続くのは、人がそれをあたりまえと思うからだ。それがあたりまえでなくなると、問題がはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも「ひどい」と感じられない。

学校や教育の世界を、なにか聖なる区域のようなものとして扱い、それをあたりまえと思う私たちの習慣が、学校の残酷、理不尽、そして教育関係者の腐敗を支えている。

私たちは、この「あたりまえ」を、もういちど考え直す必要がある。教育という阿片に侵食された、思考の習慣を改めてはどうだろうか。

多くの人が学校がらみ、教育がらみの「あたりまえ」をあたりまえと思わなくなることによって、事態が改善し、不幸なできごとを減らすことができるからだ。

「くさや」と書かれた付箋

 

学校は自殺の事実を隠した

今回は、茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件と、教育委員会のふるまいに関する記事や番組をもとに議論を展開しよう。読者は、私たちが学校や教育について、どれほどまちがった認識をもっていたかに驚かれることだろう。

以下ではまず、取手市教委のふるまいに関する報道を紹介し、そこから私たちが教育について持っている困った先入観について議論を展開する。

次に、今回のいじめについての報道を紹介し、それを手がかりに日本の学校制度の問題を論じる。

教委のふるまいについて報じられたあらましは以下のとおりである。

朝日、読売、毎日、産経、日経、東京、茨城など、新聞各社の大量の記事をもとに、適宜、テレビや雑誌の調査報道を用いた。煩瑣な引用により文章が読みづらくなることを避けるため、新聞記事から引いたものは引用表記を省略した。各紙の文章をそのまま用いたり、合成したりした箇所があることをあらかじめことわっておく。もちろん紹介箇所のオリジナリティは報道各社にある。

2015年11月10日、茨城県取手市、市立中学3年の中島菜保子さん(15歳)が自室で首をつっているのを、両親が発見。

翌日11月11日、菜保子さんは死亡した。

同日、学校は市教委宛に「自殺を図り」と記した緊急報告書をファックスで送り、市教委は臨時会合を開いた。そこで、生徒に自殺と伝えない方針が決まった。

2015年11月12日、校長は全校集会で、「思いがけない突然の死」と生徒に説明し、自殺の事実を隠した。

2015年11月13日、学校は、自殺ではなく「死亡事故」「事故者」と記載された緊急報告書を市教委に送った。この書類で学校は、臨時保護者会を開かない方針と、警察への口止め行為(「警察から報道(機関)に広報しないことを確認した」との文面)を市教委に報告した。

後に市教委は「子供の心を考慮し、遺族の意向もあった」と釈明するが、それに対し父は「そうしてほしいと頼んだことはない」と語る。学校側は、3年生の受験を理由に中島さんの死を「不慮の事故」として生徒らに報告したいと父に同意を求めていた。

同級生は当時のことを次のように証言する(いつのことか日付は不明)。教員が生徒たちに「中島さんがなくなりました。いじめはなかったですよね。皆、仲良くしていたので先生も残念です」と説明した。保護者にも自殺の理由について「家庭の事情で」と発表があった。(『週刊文春』2017年6月15日号)

2015年11月16日、両親が、菜保子さんの日記をみつける。そこには、いじめの存在を示す記述があった。

制服のポケットからは「くさや」と書かれた付箋が出てきた。

両親は学校側にこれを示し、菜保子さんが自殺した事実を生徒たちに伝えて真相を究明するよう求めた。

「きらい/うざい/うんこ」

 

市教委は無視し続けた

2015年12月。自殺があったことを生徒に隠したまま、学校は全校生徒にアンケートをし、市教委の担当者が3年生に面接調査をした。

アンケート調査の質問票は、いじめや自殺に触れていなかった。

面接調査で担当者は、「くさや」の文字を隠した付箋のコピーを見せるだけで、具体的ないじめについて質問をしなかった。それと対照的に、習っていたピアノのことや両親との関係など、菜保子さんの家庭事情については質問をしていた。

ある同級生は「(ピアノのことなどで)お母さんは厳しかったの?」と質問された。また別の同級生は、いじめと関係があると思った菜保子さんからの手紙を面接担当者に渡したが、すぐその場でつき返された。いじめがあったとはっきり証言したという同級生もいた(TBS「News23」5月29日(以下「News23」と略))。

生徒たちは菜保子さんへのいじめを目撃しており、何人かの生徒はすでにいじめについて教員に話をしていた。教員は「わかった」「そうなんだ」などと言っていたという(NHKクローズアップ現代」2017年7月18日(以下「クロ現」と略))。

市教委は両親に「いじめは認められなかった」と報告した。

市教委の調査に疑念を抱いた両親は、菜保子さんの同級生二十人と会って話を聞いた。彼らは両親にいじめを裏付ける証言をした。以後、両親はいじめがあったと訴えたが、市教委はそれを無視し続ける。

翌2016年2月。両親は市教委に第三者委員会の設置を求めた。

〔PHOTO〕iStock

「重大事態に該当しない」

同2016年3月卒業日。中学3年生になると卒業日に渡す個人アルバムを、1年間のいろいろな行事を書き加えてつくっていく。卒業式の朝、両親はアルバムを受け取った。そこには、「きらい/うざい/クソやろー/うんこ」などと書かれた菜保子さんに対する寄せ書きがあった。

「そのアルバムは自死から卒業式まで、学校側による調査があったにもかかわらず、ずっと隠されていたわけです。それで、いじめはなかった、という調査結果でした」(菜保子さんの母)。

2016年3月16日。市教委は前もって学校から重大事態発生報告書を受け取っていた(3月4日)。それにもかかわらず、市教委は臨時会を開き、「いじめがなかったとの判断」を示した(「クロ現」)。

そして、菜保子さんの死を「(いじめ防止対策法で規定された)いじめによる重大事態に該当しない」と議決したうえで、調査委員会の設置を決定した。この臨時会の議事録は大半が黒塗りであり、発言者の個人名が記載されていなかった(取手市議会2017年6月8日、染谷議員質問より)。

2016年6月、市教委は定例会で5人の調査委員を決定した。茨城大教授1名(教育学)、筑波大教授2名(精神科医臨床心理士)、東京の大学教授1名(臨床心理士)、茨城県で開業している弁護士1名である。

2016年7月、調査委が調査を開始。

筋書にはめ込むための調査

 

筋書にはめ込むための調査

調査委員の聞き取りを受けた同級生は、菜保子さんの家のことばかり聞こうとする委員の不審な言動について、次のように証言する。

「聞かれたのはそっち(いじめ)の方が少なくて、家のこととか聞かれた数ではそっちの方が多かった。ピアノの練習もきつくて死んじゃったとか、お母さんがピアノ厳しいから亡くなっちゃったんじゃないのかとか、なんでそんな話しになるんだろうと思いました」(「News23」)

翌2017年3月。調査委は両親への聞き取りをしようとしなかったので、両親は調査委がきちんと機能するよう文科省に訴えた(「News23」)。

同2017年4月、両親が文科省に訴えるとしばらくして、第三者委二人が両親に聞き取り調査を行った。このときの委員の不審な言動について両親は次のように証言する。

母:「食欲が落ちてませんでしたか、否定的な発言をしていなかった、とか、私たちの思春期の反抗期まで聞いてきたので、それがどういう調査に関わるのだろう」。

父:「いじめのことについては聞かれないんですかということを言いましたら、学校の調書があります、っていう回答が返ってきました」。「いじめのことに関しては、もう学校・教育委員会の聞き取った以上のものは何も調べないんだな。その流れを固めるためにそういうことを行おうとしているんだな、ということを感じました」。

母:「いつ学校は向き合ってくれるんだろう。学校っていったい何なんだろうなあ」(「News23」)

第三者委について評論家の尾木直樹は、「ピアノの練習が厳しかったので虐待ではないか、など家庭に問題があったという筋書にはめ込むための〝調査〟だったと聞く」と証言している(『週刊文春』2017年6月22日号)。

「弁解する余地ない」

2017年5月29日、両親が「中立性や遺族への配慮を欠く」として調査委の調査の中止と解散を文科省に直訴する。

翌日5月30日、市教委は文科省の指導を受けて臨時会を開き、「いじめによる重大事態に該当しない」との議決を撤回。また、これまでの「いじめがなかったとの判断」をおおやけに撤回した。

この突然の撤回に関して、市教委の教育部長は記者会見で次のような言動を示している。

記者:「お上に言われたからあわてて(臨時会を)開きました感が否めないのですけど、そのへん、いかがですか」

教育部長:「それについては、あの、もう、あえていいわけはしません。正直いって、私たち、弁解する気もないので、弁解する余地ないと思っとります。むしろ文科省も、この件に関しては、指導いただいてありがとうございます、というところでございます」。(この発言の際、教育部長の怒りにゆがんだ顔とにらむような目つきがテレビで放映される)(フジテレビ『とくダネ!』2017年6月1日)

調査資料は全部消去…?

 

教委への「不信」「信頼の危機」

市教委は、調査委を解散してほしいという遺族からの要求を拒んだ。

2017年6月1日、市教委はまた文科省の指導を受けると、すぐに調査委を解散する方針を表明した。

市教委の教育長は、「両親の申し入れを重く受け止め、信頼回復しながら次に向かっていくために解散する方向で進めたい」と話した。

2017年6月9日、同教育長が市議会で「調査委員会の中立性を重視するあまり、一番寄り添う必要のあったご遺族の意向を聞くことをせず、さらに苦しめることになった。慚愧(ざんき)に堪えない」と謝罪した。

この事件の報道に際し、新聞各紙で教委への「不信」「信頼の危機」「信頼回復」といったたぐいの語が見出しや本文にあらわれるようになった。

2017年6月13日、調査委の解散をうけて、当該委員長は、新たな委員会にバイアスをかける(予断を与える)ことになるのを避けるために調査資料は全部消去すると話す。

以上、取手市教育委員会のふるまいについて。