いじめニュース速報@イジ速

いじめ事件 ・イジメ ニュースを発信中!スマホいじめが増加!子供達をいじめから守ろう!

いじめには反撃しかない

f:id:ryoushinn11:20190213173802p:plain

加害者は弱い捕食獣

 東京都八王子市の教育委員会は6日、同市立中学2年の女子生徒が8月に電車に飛び込んで自殺を図り、その後に死亡したと発表した。女子生徒は3月まで在籍していた中学校での部活動に関してトラブルがあったとする遺書を書いていた。市教委によると、女子生徒は昨年8月、家族旅行で部活動を休んだことから、部の上級生から会員制交流サイト(SNS)で「どうして休んだ」と批判され不登校になった。今年4月に別の中学校に転校したが、SNS上でいじめが続いていたという。

転校後もSNS上でいじめが続いていたという事実に驚かされ、暗澹(あんたん)たる思いがした。私は人間が集団で暮らすかぎり、絶対にいじめは起こると考えている。子供の世界だけではない。会社でも公然といじめは行われている。要するに反撃できない相手をいたぶるのは楽しいのだ。人間にはそんな「悪」が潜んでいる。

いじめの標的にされたとき、この女子生徒のように「逃げる」のもひとつの対処法だとは思う。ただ、いじめをする人間は弱い捕食獣と同じだということを忘れてはならない。逃げるということは、反撃の意思がないことを示し、襲撃しても安全な相手であるというシグナルを弱い捕食獣に発信することになる。

 自分でも恥ずかしいくらい平凡なことを言う。自分に襲いかかってくる弱い捕食獣には、断固とした反撃を試みるべきだ。それしかない。そうすれば、抵抗しないと思い込み、軽いノリであなたに襲いかかってきた弱い捕食獣は、尻尾を巻いて退散する可能性は大なのだ。もちろん痛い思いをするかもしれない。でもその体験は必ずあなたの人生にとって大きな財産になるはずだ。人生には闘わなければならない局面が何度も訪れる。モンテーニュはこんなことを書いている。

《ちょうど敵が我々(われわれ)の逃げるのを見るとますますたけり立つように、苦痛もまた我々がその前に震えるのへを見るといよいよ威張る。苦痛は、それに抵抗する者の前には、案外やさしい条件で降伏するであろう。是非(ぜひ)ともそれに対して対抗し威張らなければならない。退けば退くほど、恐ろしい破滅をわが身に招きよせることになる》(第1巻第14章「幸不幸の味わいは大部分我々がそれについて持つ考え方の如何(いかん)によること」)

 ぜひ「苦痛」を「弱い捕食獣」に置き換えて読んでほしい。

規制があって個性は育つ

 行政にも要望がある。いいかげんに性善説は捨て去り、人間に潜む「悪」を認め、いじめは絶対になくならないということを前提に、学校システムの再構築を検討してほしいと思う。

 ここで少し寄り道をしよう。30年ほど前、ある地方都市の進学塾で中学生を教えていた。そのころ近隣の市に「自由」をうたったユニークな私立高校が創設され、教え子の進学先として興味を持った。

 この学校の現在がどうなっているのか気になって、「みんなの高校情報」というサイトをのぞいてみた。この学校を昨年卒業した男性の次のような書き込みが目に留まった。「そもそも校則は存在しない。そのため、授業をサボる生徒が出るのが当たり前と言っても過言ではな

さもありなんと思った。ここで私の立場を明らかにしておこう。小中高校は、公民の育成を学校の使命と考えれば、子供にさまざまな規制を課し、それを破った者には罰を加えるのは必要なことだと考える。規制があるからこそ、忍従のなかで自由への強い憧憬が育まれるのではないか。

ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムがワイマール体制下のドイツ国民がナチズムに傾倒していった原因を分析した『自由からの逃走』で書いたように、規制のない自由な環境に置かれた人間はそのことに不安を覚えて規制、つまり不自由を求めるようになる。人間をめぐる面白い逆説だ。そして詩人、新川和江さんの代表作である「わたしを束ねないで」を思い出す。

 《わたしを束ねないで/あらせいとうの花のように/白い葱のように/束ねないでください/わたしは稲穂/秋/大地が胸を焦がす/見渡すかぎりの金色の稲穂》

 本物の才能は、枠をはめようとしてもそれを突き破って頭角を現してくるものだ。枠があるから才能は育つ。そう考える私には、この学校の教育が成功しているとはとても思えない。

その温床はクラス制に

 ところが、同じ男性が次のような書き込みをしているのだ。「いじめに関する問題は、聞いたことはない。生徒が誰とどう関わるかも自由なため、いじめる・いじめられるといった関係に発展することがそもそも少ない」

 この指摘はいじめについて考えるとき、きわめて重要な示唆を与えてくれると思う。現在の小中高では子供をクラスという閉塞(へいそく)環境(檻(おり))に入れて教育目標を達成しようとしている。私は、いじめの温床がクラス制にある気がしてならないのだ。そこでは必ずといってよいほど「クラス一体となって」という同調圧力が生じるからだ。

そもそも誰とでも仲よくなるなんて不可能だ。馬の合わない相手とは距離を置いた方がよいに決まっている。それが授業も運動会も遠足も一緒にやらされたのでは、距離の取りようもなく、どんな子供でもストレスがたまってゆくに決まっている。

 もちろん集団生活を覚えさせるという意味で、小学校低学年まではクラス単位の教育もありだと思うが、それ以降は子供たちを檻から解放して、大学と同じように、それぞれが自由に自分の時間割を作れるようにしたらどうだろう。問題はクラブ活動だ。特に運動部は勝利を目指す分、クラスの何十倍もの同調圧力がかかってくるはずだ。残念ながら私に妙案はない。

最後にこれだけは言っておきたい。学校内であろうと、人権侵害、窃盗、傷害、恐喝、名誉毀損(めいよきそん)、器物損壊などの罪をおかした者は、かならず法にのっとって処罰されるという原則を確立し、周知徹底すべきだ。教育論をかざして、学校を治外法権の聖域にしてはならない。警察を校内に入れないことで、いったい誰が得をするというのか。