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全国の中学校で教科書をなぞるだけの授業

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旧来型組織の改革が進んでいくなか、なかなか変わらないと揶揄される「教育現場」。しかし、常識に捉われず改革を進めている千代田区麹町中学校の手法は、あらゆる組織の改革にも通じると話題を集めています。本連載は、千代田区麹町中学校長・工藤勇一氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社)から一部を抜粋し、麹町中学校の「学校改革」について紹介していきます。今回は、学校教育において学ぶ内容(カリキュラム)を定める「学習指導要領」と「いじめ調査」の意義ついて考えていきます。

 

「カリキュラム」が教師の自由な発想を阻害している

学習指導要領は何のためにあるのか

 

次に、「学ぶ内容(カリキュラム)」と「学び方」の観点から、現代の学校教育を考えてみましょう。

 

学校のカリキュラムを定めているのは、国が定める「学習指導要領」です。これは、ほぼ10年に一度、改訂が行われ、学校で子どもたちが「社会でよりよく生きていける」ようにするために、どういった知識・技能について学ぶか、また、学ぶべき内容を、どの順番でどのように学ぶかについて、学年ごと、教科ごとに細かく内容を示したものです。

 

各学校は、学習指導要領を上手に活用して、子どもたちに必要な力を身に付けさせていくことが大切です。個人的には、現在のカリキュラムの内容は多すぎると感じています。現代の社会が求める最小限のものに絞り、もっとシンプルにする必要があると考えます。

 

ところで、教育関係者の多くは、学習指導要領に基づいて作られた教科書をこなすことや、定められた時間数を守ることに意識が向きがちです。地域の実情や目の前の子どもたちの実態に合わせて、柔軟に教育内容を工夫することは、ほぼ見られません。

 

例えば、離島や過疎地の学校には、教員1人につき、児童生徒2、3人の学級があります。2、3人の学級であれば、30~40人学級よりも授業が進めやすく、教科書を中心にした一斉講義型の授業にこだわる必要は必ずしもありません。個別学習もしながら、同時に、グループでの調べ学習なども取り入れて、密度の濃い授業が展開できます。

 

しかし、そうした環境にあっても、黒板を使った一斉講義型の授業を実施していることがあります。その理由は、教科書を早く終わらせても、次の学年に進めないと考えているからです。

 

確かに、日本の小学校・中学校では、2学期までに教科書をすべて消化しても、次学年の教科書は翌年度まで届きません。しかし、だからといって、一斉講義型の授業にこだわる必要もありません。時間を潤沢に使えるなら、教科書の内容をなぞるだけでなく、単元の学習と実社会とのつながりを調べたり、学校から外へ出て地域に出て行って学んだりと、さまざまな工夫を試みることが可能です。

 

これは一例にすぎませんが、同様の現象は至る所で見られます。

 

つまり、学習指導要領に教員の意識が縛られていて、自由な発想が奪われてしまっているのです。目の前の子どもたちが社会の中でよりよく生きていくために何が必要なのか、多くの教員、教育関係者が自分の頭で考えることを忘れて、教科書をこなすことに終始してしまっていることが問題だと考えます。その結果として、「今週の学級活動、何にする?」なんて会話が、多くの職員室で交わされているのが現実ではないでしょうか。

 

「忙しい、忙しい」と嘆きながら、その一方で、目的のない授業を無駄に行う。学習指導要領に縛られた結果がこれでは何とも皮肉です。

 

すでに2018年度から先行実施されている新しい学習指導要領は、「社会に開かれた教育課程」を標榜しています(ちなみに、私は「学校を社会に開く」というよりは、社会とのつながりにおいてつなぎ目がない、自然につながっているという思いを込めて「社会とシームレスな教育課程」と言っています)。その方向性自体は、麹町中が掲げる教育目標とも一致しており、何ら異論はありません。

 

しかし、学習指導要領の存在自体が、教員の自由な発想を忘れさせて、「社会に開かれた教育課程」の阻害要因となっているのは、何とも不思議なことではないかと思います。学習指導要領は、あくまでも、国が定める教育課程の大綱的な基準にすぎません。教科書を使って授業を行っていますが、子どもの状況に合わせて、内容を加えて教えたり、教材を工夫して教えたりすることはいくらでもできるはずです。

 

確かに北海道から沖縄まで、全国すべての自治体において、子どもたちが学べる内容を保障することは大切です。しかし、一方で学習指導要領の存在が、学校をどこか窮屈にしているように感じます。この背景には、私も含め校長や教員が「考える」ことをやめてしまったことがあるのではないでしょうか。

いじめの認知件数の増減に意味はない

いじめ調査は何のためにするのか

 

毎年度「いじめ調査」が行われています。文部科学省から調査結果が出ると、「認知件数が増えた・あるいは減った」ということがマスメディアによって報じられます。これを見て、いじめ問題の深刻化を危惧したり、「学校や教育委員会は何をしているのか」と問いただしたくなったりする人もいるでしょう。

 

しかし、いじめ調査の目的はどこにあるのでしょうか。

 

「いじめ件数を把握するため」と言う人は多いと思いますが、それは副次的なものにすぎません。いじめ調査は、目に見えない「いじめ」を掘り起こし、いじめによって苦しんでいる生徒を救うために行うものです。調査で上がってくる数字に一喜一憂することに意味はありません。私たちは評論家ではなく、教育者です。

 

以前、新宿区の教育委員会で教育指導課長を務めていたとき、ある区議会議員から「いじめの調査結果によると、件数が増加している。この数字を教育委員会はどのように捉えているのか」との質問を受けたことがありました

 

私は次のようなことを答えました。

 

「私は決して多い数字だとは考えていません。これでも、まだ少ないのかもしれません。

 

そもそもいじめ調査は人間関係で苦しんでいる子どもたちを救うために行います。子どもたちの間にトラブルが生じていることを教師や学校が知ることが重要であり、今、この瞬間にも、調査結果で示された件数の一つひとつの裏側に、いじめで苦しんでいる子どもたちがいます。ほかにもまだ、いじめで苦しんでいる子どもがいるかもしれません。

 

そもそも、この調査結果の一つひとつがいじめなのかどうかを特定することは重要ではありません。トラブルは子どもたち自身の力で解決するのが理想です。しかし、中には子どもたちだけでは解決できず、大きく傷ついてしまうことがあります。

 

ですから、このトラブルが子ども同士で解決できるものなのかどうか、もしできなければ、どういった支援が必要なのかを吟味することが大切です。新宿区教委はこの姿勢を貫き通していきたいと思います」

 

この発言を当時の、新宿区の区議会は快く受けとめて、全面的に支持してくれました。私はそのことをとてもうれしく思いました。また、区議会の皆さんの姿勢を区の一員として誇りに感じました。

 

いじめ調査は「いじめの発見・対応」という目的達成に向けた「手段」として行われます。その「手段」自体にこだわり、調査結果の数の増減やその原因追及だけを行うのは、本来の目的を見失っています。