生徒を叱れない環境が「いじめ」を助長
大阪府吹田市の小学校で女児が複数の男児からいじめられていた問題の詳細が捜査関係者への取材で明らかになったらしい。
2015年秋頃
いじめが始まった
2016年3月
いじめが原因で足首を骨折
2017年4月
両親が教育委員会に調査を依頼
2017年6月
両親が大阪府警に被害届を提出
2017年7月
大阪府警がいじめがあったと児童相談所に通告
児童相談所が加害者の少年5人と面談
2017年8月
両親が教育委員会に相談してから4ヶ月間放置した後、第三者委員会を設置
2017年10月
ようやく、いじめ調査を開始
こうやって報道されている経緯を時系列で並べてみると、はっきりと判明するのが、相変わらずの教育委員会の怠慢ぶりだ。両親が相談後、半年も経ってから調査が行われるという有り様。これでは、いじめが有ったことを隠すことが教育委員会の役割だと疑われても仕方がないと言える。
■大人が鬼になって教えるべき「他人の痛み」
しかし、まだ物心が付かない(物事の善し悪しが解らない)年齢だとはいえ、小学生の男児が5人で1人の女児をいじめるとは末恐ろしい…と言うか、おそらく、昆虫や動物を虐めているのと同じような感覚だったのだろうと推察するが、こういう生徒は彼らが大人になってから後悔するのを防ぐためにも大人がしっかりと監視しなければいけない。
やって良いことと悪いことの違いは、大人が子どもに教えるしか方法がない。他人を傷付けることは悪いことだと言葉だけで解らないのであれば、残念ながら身体で教えるしかない。殴られれば痛いし、反抗できないことは悲しいということを大人が鬼になって教えなければいけない場合がある。
しかし、現代の小学校は、体罰が禁止されているので、ビンタやゲンコツでもしようものなら、逆に教師が悪者として訴えられるようになっている。
よく映画などで、刑務所の囚人通しが殴り合いの喧嘩になると、決まって、看守達が喧嘩を止めに入る。当然、止める時には警棒などを使用した暴力が伴う。ところが、現在の学校はこれができない。看守(教師)が囚人(生徒)達の喧嘩を仲裁せずに黙って観ているだけでは、怪我人だけでなく死人が出る危険性もある。
こんな教育現場では「どうぞ好き勝手にいじめを行ってください」と言っているようなものかもしれない。まともに叱ることができずに、どうやって悪ガキを更正させることができるというのだろうか?
「聖職者である教師は暴力を振るうことはできない」と言うのであれば、刑務所同様に、看守らしきものを常駐させるべきだろう。
■歪んだ自由が、未来の似非リベラルを作り出す
昔から、未成年者は悪事を働いても少年法で過剰に守られていることが問題だとされることがあった。しかし現在では、そこにさらに輪をかけて、法律を悪用することが当然というような教育現場となっている。
生徒に対する暴力は許さないということは理解できるのだが、悪いことをした生徒に対して“叱る”という意味での暴力も一切許さないとなると、生徒はその制度を悪用して、何でもやりたい放題の環境が出来上がることになる。そういう環境に慣れてしまった生徒は、「放埒」を「自由」だと思い込んでしまうようになり、学校は未来の似非リベラルを身籠ることになる。
目の前で悪が為されていても、口で注意するだけ。口で言って聞かない生徒にはお手上げとなる。
クビになることを恐れる教師は口を噤み、いつしか、生徒の悪事を見て見ぬ振りをすることが正しいという錯覚を覚えるようになっていく。これではまさに、いじめられている生徒にとっては地獄であり、教師にとっても悪夢以外の何ものでもない。
“悪ガキはいない”という前提で組み立てられた理想論としての「体罰禁止論」が、皮肉なことに、いじめを拡大再生産する手伝いをしている。そういう負の側面にも目を向ける必要がある。