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鹿児島いじめ自殺事件にみる教育現場

騒がないと動かない

「騒がないと、動かない」。この行政の事なかれ主義は、中央のみならず、地方行政にも認められる。

例えば、いじめを原因とする自殺認定だ。

いじめによる自殺は跡を絶たない。しかし、学校でのいじめが原因であると、認定されないケースが多い。

2014年8月20日に自殺した当時高校2年生だった田中拓海さん(享年15歳)もその一人だ。彼は鹿児島市の高校に通っていたが学校でいじめにあい、それが原因で自殺した。

田中さんが通っていた高校は、彼が自殺したあと基本的な調査を行った。学校では問題は見当たらないと結論づけた。しかし、学校は生徒や家族からほとんど話を聞くことなく、教員への聞き取りだけで結論を出していた

2015年年3月、母の依頼を受け、ようやく同高は生徒にアンケートを実施した。「かばんに納豆を入れられていたというのを聞いた」「スリッパを隠されていた」「葬式のトイレで、『ばれたらやばくない』と話しているのを聞いた」などといじめをうかがわせる記述があったという。

しかし、県教育委員会が設置したいじめ調査委委員会は17年3月、「いじめがあったとは断定できない」と同様の結論をつけた(朝日新聞デジタル2018年6月23日)。田中さんは亡くなる直前、母親に黙って学校を無断で休んでいた。そのことも学校は母親には知らせなかった。母親がそれを知ったのは県の調査委員会が調査内容を開示したときだった(前掲NHKニュース)。

田中さんの母親はやはり納得できず、母親はメディアに自殺した田中拓海さんの実名と写真を公表し、社会に問題提起した。要請を受けた鹿児島県は知事部局でメンバーを変えての第三者委員会を設置した。第三者委員会も今回は誠実に対応した。

過去の県調査委員会はたった3人の生徒しか聞き取り調査を行っていなかったが、今回は同じ高校の生徒を18人、中学時代の友人にも聞き取りを行った。そして、最初の調査委員会の結論を覆し、いじめの存在を認定したのだ。田中さんの死から4年7ヶ月が経過していた。

報道によると、田中さんの母親はいじめの認定までの4年7ヶ月の間、膨大なメールや文書の作成に忙殺されたという。行政文書作成の素人である母親に4年以上もの作業を強いなければ、いじめを認定しない。息子を突然失った母親に対する、これが学校や自治体の仕打ちだろうか。セカンド・レイプという言葉があるが、これこそまさに母親に対するセカンド・いじめではないだろうか。

「いじめ防止対策推進法」が施行されたのが2013年6月28日である。しかし、この法律があっても、いじめの被害者たちも、その家族も守られていない事実が本件から明らかになった。

母親が子供の実名や写真をメディアに公開し、プライバシーをあえて侵害されるリスクを犯し、「世間が騒がないと」行政は動いてくれない。なぜ、ここまで個々人が肉体的、精神的に消耗しないと対応してくれないのだろうか。「騒がないと、動かない」。空気を作らないと、動かない。ファクトよりも「空気」、の日本行政や教育現場の態度がここから明らかである。

ぼくが日本化学療法学会大会長から「書籍販売禁止」というハラスメントを受けたときも、学会の対応はずさんだった。学会は当の大会長に話を聞き、「特に悪気はなかった」という「本人の」コメントを受けて、この問題は大会長個人が勝手にやったことで、学会は一切関係ないと結論づけた。

学会は関係者の聞き取りもせず、ぼくからの聞き取りすらせず、単に加害者本人のコメントだけで結論をつけたのだ。ぼくが「当人の言うことなど信用できるわけがない。当人からの聞き取りで済まそうという化学療法学会も、悪いけど信用できない。第三者委員会で調査してほしい」と要望して、やっと調査がなされたのだ。

田中拓海さんの自殺を矮小化しようとし、いじめの存在を認定しようとしなかった鹿児島県教育委員会の委員長は第三者委員会の認定を受けて、田中さんの自宅を訪問した。『重大な事態を防げなかったことを心よりおわび申し上げたい』と、わずか数十秒のことばを述べて押し黙ったという。『それで、きょうは終わりですか?』たまらず代理人の弁護士が問いかけると、『報告書を真摯(しんし)に受け止めて再発防止に取り組みたい』と述べたそうだ(前掲NHK)。

ぼくはこのやり取りを聞いて、「ああ、これじゃだめだな」と思った。

ぼくは病院内の感染対策の仕事もやっているが、病院長たちにいつもお願いすることは「二度とこのようなことは繰り返しません」という言い方をしてはいけない、ということだ。

病院は病人で満ちている。当たり前だ。病人は健康な人よりも感染リスクが高く、病人が病院で治療を受けている限り、一定のリスクで感染症は起きる。必ず起きる。それは、徹底的に対策をとっても「ゼロ」にはできない。

いや、「ゼロ」にする方法はある。認識しなければよいのだ。感染症ではなく、「謎の発熱」「謎の急変」にしてしまい、感染症診断に必要な検査をサボり、「なかったこと」にすれば、院内感染はゼロにできる。

「うちでは、感染症の問題は起きてませんよ」という病院が一番「やばい」病院なのだ。ゼロリスクの希求はゼロリスクを欲望させ、幻想的な(実在しない)ゼロリスクを捏造する。

いじめも同様である。

現実を直視しようとしない「事なかれ主義」な集団が「再発防止に取り組む」場合、一番簡単なのは「再発はなかった」と繰り返すことである。要するに、また事実の隠蔽、歪曲、看過である。あれはいじめではなく、ふざけていただけだ。遊んでいただけだ。学校内で問題は起きていなかった。そうやって「事実」から目を背けていれば、「再発」はない。

だから、大切なのは「二度と同じようなことは繰り返しません」というスローガン的なその場しのぎの言い逃れではない。必要なのは「今度から、ちゃんと現実、事実から目をそらさず、自分に都合の悪い現実を直視します」という、より厳しい宣言なのである。

メディアが騒ぎ、空気が醸造されないと動かない、動こうとしない事なかれ主義。このようなエートスがある限り、どんなに法律が整備されようが、なんとか調査委員会が設置されようが、いじめの被害はなくならないし、自殺の被害は続くだろう。

厚生労働省の自殺白書によると、15歳から35歳の死因のトップは自殺である(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-03.pdf)。しかも、死亡率は10万人あたり18.1と非常に高い。単に「日本は交通事故死や銃による死亡が少ないから自殺がスタンドアウトしてるだけだ」というわけではないのだ。大人の社会がもろにいじめ社会なのに、子どもの陰湿ないじめがなくなるわけがないのだ。

若者の自殺はいじめを原因とすることが多い。

文部科学省の調査だと、いじめが自殺の原因になるのは2%未満なのだそうだが(http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/09/10/1351886_05.pdf)真っ赤な間違いである。この調査では以下の文言がある。

文部科学省においては,平成23年6月1日より,児童生徒の自殺の背景となった可能性のある事実関係に関するできる限り正確なデータをより多く収集・分析し,子供の自殺対策に資するため,「児童生徒の自殺等に関する実態調査」を継続的に実施している」

が、この調査の対象は「学校の管理職が,自殺であると判断したもの及び自殺である可能性が否定できないと判断したもの」である。事なかれ主義の学校管理職がわざわざ上役である文科省に「うちにはこんなに自殺や自殺可能性者がいましたよ」なんて自己申告するわけがない。文科省もそれに気づかないとしたら、よほど胡乱な連中である。

もちろん、文科省だって調査方法の瑕疵には気がついていたに決まっている。彼らは本気の本気で現場の実態を知りたいわけではないのだ。「正確なデータ」にも興味がないのだ。定型的に調査依頼を出し、管理者は文科省の依頼を受けて粛々とそれっぽいデータを回答する。これをまとめて報告書にする。「お役所仕事」のできあがりである。

日本財団が「若者を」対象にした調査によると、18〜22歳の若年層の30%が自殺念慮を持ったことがある。自殺念慮とは、「本気で自殺したいと考えたことがある」ということだ。そして、自殺未遂経験は男性の9%、女性の13%にあった。(当然のことながら)このアンケートには自殺遂行者は回答していない。自殺企図(自殺しようとした)人はもっといたのかもしれない。

そして、自殺念慮の最大の原因はいじめである。自殺念慮の最大の理由は「学校問題」であり、そのうち約半数が「いじめ」問題であった。

日本における若者の自殺は由々しき問題であり、他国では稀有な問題である。その自殺の最大の原因は学校でのいじめである。そのいじめを学校も教育委員会も、文部科学省も認知しようとしない。「皆が騒いでいない」間は絶対に騒がない。メディアが騒ぎ、空気が醸造されて初めて動く。

そうなるまで何年もタフに家族が戦い抜いたときだけ、メディアは騒いでくれる。家族の消耗、疲弊、犠牲的精神がないと行政は動かないし、動き出したときには子供が自殺してすでに数年が経過している。いじめの加害者たちも、いじめを看過した教師たちも、当時の教育委員会の委員たちも、「もう済んだことだ。騒がないでくれ」という気持ちしか残っていないだろう。なんとしてでもあのときいじめをやめるべきだった、止めるべきだった、というエートスは生まれにくいだろう。

むしろ、「あの母親が執念深く騒ぎ続けなければこんな大事にならずに済んだのに」とあらぬ方向に批判がましい視線が向いてしまいかねない。

いじめを防止するためには、いじめによる自殺を防止するためには、タイムリーないじめの認知が不可欠である。「不都合な」事実を直視する勇気が不可欠である。「再発防止に努める」だけでなく、「再発を素早く、誠実に認識し、対応する」覚悟が必要である。

「覚悟」。これこそが、日本のいじめ対策において、もっとも欠落しているミッシングパーツなのである。