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「女の子のいじめ」は「間接的攻撃」

#MeToo運動で頻繁に登場したのが、“toxic masculinity”という言葉だ。これは日本語で、「毒々しい男らしさ」と訳されている。「男はマッチョであるべき」というマチズモのことだが、そこにtoxic(毒性の)というネガティブな形容詞をつけたことで、「セクハラやドメスティックス・バイオレンス、レイプなどの性犯罪の背景にあるのは過剰な男らしさだ」とのメッセージが込められている。

 こうしたフェミニズムの主張に対しては、当然のことながら男の側から反論があって、それが(例によって)アメリカ社会を二分しているのだが、興味深いのは男の側にも「男批判」に与する者がいることだ。

 一般に「リベラル」に分類される彼らは、「女は男より共感力に優れている」として、「女は善で(自分たち以外の)男は悪」と主張をしている(ように見える)。その多くは白人で、「黒人などのマイノリティは犠牲者で(自分たち以外の)白人は人種差別主義者(レイシスト)」という立場をとる(ように見える)。

 これがアメリカ社会で「保守vsリベラル」の憎悪を煽り立てる理由のひとつになっているのだが、このやっかいな話はちょっと脇に置いておいて、ここで紹介したいのは、当の女性のなかから、「共感力にあふれた女は素晴らしい」との賛辞に対して、「そんなわけないでしょ」との反論が現われたことだ。

 そのきっかけになったのが2002年に全米ベストセラーとなったレイチェル・シモンズの“Odd Girl Out : The Hidden Culture of Aggression in Girls”で、日本では『女の子どうしって、ややこしい!』草思社)として翻訳されている。原題は「ヘンな子をハブる 女の子の攻撃性の隠された文化」という感じだろうか。2005年にはテレビドラマ化もされたようだ。

 女に子どうしのいじめは、日本では少女マンガやライトノベルなどのサブカルチャーが繰り返し描いてきた。アメリカも(たぶん)同じだろうが、シモンズの本が大きな反響を呼んだのはそれを社会問題として真正面から取り上げたからだ。それはいわば、“toxic femininity(毒々しい女らしさ)”の女性の側からの告発だった。

男の子の「直接的攻撃」に対して女の子は「間接的攻撃」を多用する

 シモンズがこのテーマに関心をもったのは、自身の「いじめ体験」からだった。8歳のとき、同じ小学校にアビーという人気のある女の子がいた。アビーとはとくに親しいわけではなかったが、あるとき理由もわからず、シモンズの親友に彼女のことを中傷した。すると親友は、「ほかの女の子たちと遊ぶのが楽しい」とシモンズから離れていった。

 シモンズがいまでも強烈に覚えているのは、次のような体験だ。

 「ある日の放課後、地元のコミュニティセンターで開かれるダンス教室に行ったときには、アビーが私の友だちを集めて、私から逃げるようにといいふくめた。私は必死で彼女たちの後を追い、息を切らしながらコミュニティセンターの劇場に入っていった。突然の暗闇に目をこらす。客席や舞台で、ぱたぱたという足音が聞こえ、追いかけていくと、笑い声がどよめいた」

 その日から、シモンズは女の子全員から「ハブられた」。「誰もいない薄暗い廊下、階段の吹き抜け、駐車場、どこにいてもひとりぼっちだった。悲しみに押しつぶされそうになりながら、こんな思いをしているのは自分だけだと思っていた」という。

 大学生になったシモンズは、たまたま6人の女友だちと夜食をつまみながら話をしていたとき、全員が同じようにいじめられた経験があることを知った。それが「女の攻撃性」を研究しようと思い立ったきっかけとなった。

 シモンズはまず、アメリカの知り合い全員にEメールで「ほかの女の子にいじめられたことがありますか? どんなふうだったか、説明してください。いじめの経験によって、どんな影響を受けましたか?」との質問を送り、「できるだけ多くの女性に転送してください」と頼んだ。

 24時間以内に、シモンズの受信トレイは全国からの返信でいっぱいになった。「みな何かに突き動かされたように、自分の体験談を語り、見ず知らずの女性たちが、この話をするのはあなたが初めてです、と書いていた」。

 次にシモンズは、「女の子のいじめ」がピークに達する10歳から14歳までにインタビューすることにした。対象となったのはアメリカの3つの地域(大西洋中部、北東部、ミシシッピー)の10校で、私立女子高、中流階級ユダヤ人学校、黒人とプエルトリコ、ドミニカ出身者が大半の学校など校風はさまざまだが、女の子たちの体験はとてもよく似ていた。

 このインタビューから、シモンズは女の子たちのあいだで“alternative aggression”が広く行なわれていることを発見した。男の子たちは殴り合いなど「直接的攻撃direct aggression」をするが、女の子はその代わりに別の(alternative)攻撃手法を使っているというのだ。これは日本語版では「裏攻撃」と訳されている。

 じつはノルウェー社会心理学者カイ・ビョークヴィストが、1990年代に「女の子の攻撃性」を精力的に調べ、男の子の「直接的攻撃」に対して女の子は「間接的攻撃」を多用すると論じている。その後、ミネソタ大学のグループがこれを「人間関係を用いた攻撃」「間接的攻撃」「社会的攻撃」に分類し、以下のように定義した。

・人間関係を用いた攻撃:「人間関係、つまり、他人に受け入れられているという感覚、友情、グループの一員であるという意識にダメージを与える行為によって、他人を傷つけること」。無視する、仲間外れにする、嫌悪を示すしぐさや表情を見せる、相手とほかのひととの関係をこわす、自分の要求に応えないならつきあいをやめると脅すなど

・間接的攻撃:こっそりふるまい、相手を傷つける意図などまったくないかのように見せる。噂を流すなどして、他人を使う

・社会的攻撃:自尊心やグループ内の社会的ステイタスを傷つける。噂を流したり、社会的に排除したりする

 シモンズはこれらを「裏攻撃alternative aggression」としてまとめたうえで、「女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっているとは外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる」とする。

 9年生(中学3年生)の8つのグループに「男子と女子では、意地悪の仕方にどんなちがいがあると思う?」と訊いたときに、女子生徒たちから次のように言葉が次々と出てきた。

 「女子は誠実でなく、信用できず、陰険だ。他人を操り、友だちを利用して人を攻撃する。たがいを踏み台にする。容赦なくて悪賢い。何かされたら、じっと復讐の時を待ち、相手が油断しているすきをけっして見逃さない。目には目を、とでもいうような残酷さで、「自分と同じ思いをさせてやる」のだ、と」

 もちろんこれは、“toxic femininity”を一方的に批判し断罪するものではない。シモンズの意図は、女の子たちがいじめに立ち向かい、よりよい人間関係をつくっていくためには、自らの内にある「攻撃性」から目を背けてはならないということだ。

女の子のいじめ」が「社会問題」として取り上げられなかった3つの理由

 「女の子のいじめ」はアメリカでも深刻になっているにもかかわらず、つい最近まで、なぜ「社会問題」として取り上げられなかったのか。それには3つの理由があるとシモンズはいう(これは日本にも共通するだろう)。

【いじめは通過儀礼
アメリカの多くの母親は、自らの体験から、いじめは女に子にとって通過儀礼であり、それを防ぐために親(大人)にできることは何もないと考えている。「女の子がいじめ、いじめられつつ、つきあい方を学ぶのは必要なことであり、積極的な意味がある」「(いじめは)女の子がのちに大人になったときに自分を待ちうけるものを知るためにある」との主張も根強い。「女の子のいじめは普遍的に存在し、役に立つのだから、社会構造の一部として容認すべきだ」というのだ。

【いじめられる側にも問題がある】
日本と同様に、「いじめの被害者には社会的な技術が欠けている」とされる。「いじめられた子は強くなり、学習して、うまく社会にとけこむすべを身につけなければならない」と考える大人も多い。

【女の子のいじめは指導が困難】
教師の立場からすると、男の子同士のケンカは対処しやすいが、女の子のいじめは扱いにくい。ある教師は、「もし男子がペンで机をトントン叩いていれば、やめなさい、といいます。しかし女の子が別の子に意地悪そうな目つきをしていても、『こちらを見なさい』というくらいしかできないんじゃないでしょうか。男子の悪さは一見してわかりますが、女の子が何をしているか、確かなことはわかりませんから」と述べた。女の子同士のいじめは見て見ぬふりをされるのだ。

 そんなアメリカの学校で女の子たちは、“開放的で自由な青春”というイメージとはずいぶんちがって、日本の女子中学生・高校生と同じような悩みを抱えている。男の子の攻撃性と比べて長いあいだ軽視されてきた「女の子の攻撃性」だが、シモンズはそれが、(「環境を支配するため手段」としての男の攻撃性に対して)人間関係と愛情を確認するため、すわなち「共感力」から生じるのだとする。

 アメリカの10代の女の子たちがもっとも恐れるのは「ひとりでいるところを見られる」ことだ。ある女の子はシモンズにこういった。

 「廊下をひとりで歩いていて、みんなに見られている感じがするのは最悪です。ひとりでいると憐れまれるけど、誰も人から憐れまれたくないでしょう。それはつまり、まわりから孤立しているということ。何か変なところがある、ということなんです」

 シモンズが出会った女の子たちは、「ひとりのけものにされる不安にかりたてられ、学校という荒れた海に漂う救命ボートであるかのように、友人にしがみつく」。その結果、「毎日のささいな摩擦すら、大切な人たちを失うことにつながるかもしれないと恐れ、どんなレベルでも人と対立しようとしない」のだ。

 次のような発言は、何も知らなければ、日本のごくふつうの女の子のものだと思うだろう。

 「私たちは、いつもおたがいに『怒ってない?』と訊きあって、訊かれるとすぐ『ううん』と答えるんです。『怒ってる』なんていいたくないでしょう」

 「本当のことをいったら傷つけてしまう。だから私は嘘をつくんです」

 「相手が次になんというかわからないから。友情がだめになってしまうかもしれないし、もしうまくいかなかったら、相手の子はほかの子まで巻きこむかもしれない。だから、直接話はしないんです」

 「どれほど不愉快でも相手の気持ちは傷つけたくない」「自分の感情を二の次にしてまず他人の気持ちを考えなければならない」というのは、地域や学校文化、あるいは人種を問わず、アメリカの女の子たちとのインタビューで首尾一貫して現われるテーマだった。その結果、女の子社会では「解決されない摩擦が空気中にガスのようにたれこめている」。

 アメリカ人は非を認めないといわれるが、女の子同士で“Sorry”は頻繁に使われる。しかしそれは衝突の原因を解決するものではなく、人間関係を保つための形式的な謝罪なので、本質的なところではなにも変わらない。これは「魔神をびんにとじこめたようなもので、魔神はなかで次のきっかけをじっと待っている」し、「怒りとつらさを抱え込むのは、部屋のなかでゾウを飼うようなもの」なのだ。

 シモンズは、「あまりにも多くの女の子が、日常的な衝突を処理する能力に欠けているため、怒りの言葉を聞かされると驚き、身構えてしまう」という。「孤立するかもしれないという不安からパニックに陥り、自分に向けられたスポットライトをほかに向けるためならなんでも利用し、自分の味方をしてくれる友人と同盟関係をつくる」というのだが、ここから日本の女の子とのちがいを見つけるのは難しいだろう。

アメリカの10代の女の子の「理想の女の子」は「嘘っぽい」「人を操る」など「裏攻撃」が得意な子

 日本でもアメリカでも、女の子たちには理想像、すなわち「なりたい自分」がある。それと同時に、「あんなふうにはなりたくない」という女の子像もあるだろう。シモンズはそれを、10代へのインタビューをもとに“IDEAL GIRL(理想の女の子)”と“ANTI-GIRL(なりたくない女の子)”に整理している。興味深いリストなので紹介しておこう。

●理想の女の子             ●なりたくない女の子
とてもやせている             意地悪
かわいい                 醜い
ブロンド                 陽気すぎ
嘘っぽい                 運動が得意
頭が悪い                 頭がいい
背が高い                 頑固
青い目                  強情
胸が大きい                肌が浅黒い
健康                   やせていない
高価な服                 誰とでもつきあう
アンバランス               独断的
飾らない                 不安定
流行に敏感                やぼったい
人気がある                不幸そう、憂うつ
ボーイフレンドがいる           男性的
にこにこしている             まじめ
幸せそう                 強い
頼りない                 自立している
電話でよく話す(友だちが多い)      レズビアン
表面的ないさかい(すぐ解決)       芸術家気どり
大人びてみえる              いらいらして人に当たる
女の子っぽい               抑制されてない
人に頼る                 自己中心的
実用的でない服              社交性がない
人を操る                 つきあいづらい
セックス=パワー             本好き
金持ち
歯がきれい、肌がきれい
りこう
恋人はステイタスがある人

 この調査が行なわれたのは1990年代後半から2000年代はじめだが、驚いたことに、アメリカの10代の女の子の理想はバービー人形(ブロンドで青い目、背が高く痩せていて胸が大きい)であり、キューティブロンド(かわいげのある、頭が悪くて頼りなさそうな金髪娘)なのだ。

 それの一方で「なりたくない女の子(ANTI-GIRL)のなかには、「頭がいい」「強い」「自立している」などが入っている。フェミニストが理想とする女性像は、10代の女の子たちにとって「いけてない女」の典型とされているのだ。

 シモンズが注目するのは、「理想の女の子」に要件に「嘘っぽい」「人を操る」があり、「なりたくない女の子」に「強情」「独断的」「まじめ」が挙げられていることだ。これは、「裏攻撃」が得意だと女の子集団のなかで高く評価され、不得手な女の子は避けられるということだ。10代の女の子たちにとっての理想は、「自分の感情を抑え、他人を操作することで自己表現できる子」なのだ。

 シモンズはそれを、「頭が悪く、それでいて人を操れる。人に依存して頼りないが、セックスと恋愛を利用して力を得る。人気があるが、踏みこまない。健康的だが、運動はしないし頑丈でもない。幸せだが、陽気すぎない。真実味が薄い。自動警報装置がないぎりぎりのラインで爪先立ちして歩いている」ようなタイプだという。これが「リベラル」な女性たちが“toxic femininity”と見なすものだろう。

スマホを使いこなすことはできても、SNS上の人間関係を適切に管理するスキルをもっていない」

 シモンズが“Odd Girls Out”を出版したのは2002年で、その後、“いじわるな女の子たち”はMean Girlsと呼ばれるようになる。これは同じ2002年に発売されたロザリンド・ワイズマンの“Queen Bees and Wannabes(女王バチとワナビー)”を原作に、2004年にリンジー・ローハン主演で公開された映画のタイトルからとられたらしい(翻訳は『女の子って、どうして傷つけあうの? 娘を守るために親ができること』日本評論社)。

 シモンズが全米を講演すると、“ミーンガール”にいじめられていると訴える女の子とその母親だけでなく、男の子の姿も目立つようになってきた。その理由は、ミーンガールのいじめの対象にされる男子生徒が増えてきたことと、男の子集団のなかでも、従来の直接的攻撃(殴り合い)から女の子のような「裏攻撃」へといじめが変化してきたことにあるという。リベラルな社会は暴力を極端に嫌うが、そうなると男の子集団の人間関係も暴力を排除した(女の子的な)ものに変わっていくのかもしれない。

 あまりの反響の大きさにシモンズは2011年に本書の改訂版を出したが、複数の10代の自殺がネットいじめに関係しているのではないかと社会問題化したことを受けて、新たにFacebookなどSNSでのCyberbullying(ネットいじめ)の章を追加している。日本の10代はFacebookではなくLINEを使っているから事情は若干ちがうだろうが、興味深い指摘をいくつか紹介しておこう。

 研究者によると、2010年時点で、アメリカの平均的な女の子は1日50以上のテキストを送受信し、14歳から17歳はもっともアクティブで1日平均100回に達するという。友だちからのメッセージにすぐに返信しないのはrude(無作法)だとされるため、スマホを枕の下や胸の上に置いて寝る子もいる。8歳から18歳までの若者は1日平均8時間(!)をスマホやパソコンに使っているとの調査結果もある。

 11歳から18歳の若者のうち、5分の1から3分の1がCyberbullyingのターゲットにされた経験がある。ネットいじめの84%は友だち、元の友だち、別れたパートナー、クラスメートなどの「知り合い」からのもので、見知らぬ相手からのネットいじめは7%以下だった。

 ネットいじめにはかなりの男女差があり、26%の女の子がターゲットにされたが、男の子は16%だった。また22%の女の子がネットいじめをしたことがあったが、男の子は18%だった。女の子は男の子の2倍、噂話をオンラインで流してもいた。ネットいじめをする側もされる側も自己肯定感self-esteemが低く、いじめ被害にあう生徒は、不安、うつ、校内暴力、学業上のトラブル、自殺願望、自殺未遂の経験が多いとの研究もある。

 ものごころついたときにすでにネット環境のあった世代が「デジタル・ネイティブ」だが、シモンズは彼らを、「スマホを使いこなすことはできても、SNS上の人間関係を適切に管理するスキルをもっていない」という。SNSは女の子集団のルールをそのままネットに移植したもので、リアルの人間関係がうまくいかないのならネットでそれを解決できるわけはなく、問題をさらに増幅させるだけなのだ。

 女の子がほんとうに知りたいのは、友だち集団のなかでの自分の評価(「ほかの子はわたしのことをどう思ってるの? みんなわたしのことを好き? わたしはふつう? わたしは人気者? わたしはクール?」)だ。彼女たちの行動原理は、「友だち(部族)」という「なにか重要な集団に属している」というアイデンティティを得ることであり、そのためにソーシャルメディアでの「ドラマづくり」が重要になる。女の子集団にとって「情報こそが権力」なのだ。

 アメリカにも「学校裏掲示板」のようなサイトがあり、匿名のクラスメートの評判がわかる。その後、Facebookに同様の機能のアプリが登場し、多くの女の子たちが自分の評判を知るために登録したようだが、それは自尊心を高めるのではなく、逆にcyvercruelty(ネットの残酷さ)を証明することにしかならなかった。ほとんどの女の子が、悪意のある噂やネガティブな評価に愕然とすることになったのだ。

 アメリカでも、性的な画像をネットで交換するsextingが大きな問題になっている(19%の10代が性的画像やテキストを送ったことがあり、31%が受け取ったことがある)。それが性的ハラスメントの温床になっていることは間違いないものの、シモンズは、それと同時に女に子が「パワー」を得る道具として使っていると指摘する。

 思春期の女の子は、男の子に対してだけでなく、友だちグループにも自分の性的魅力を証明しなければならない。地位の高い男の子からの注目は女の子集団での地位を上げる(男の子の集団のリーダーとつき合うのが女の子集団のトップ)。そのためにsextingを意図的に利用しているというのだ。

 シモンズが強調するのは、10代の女の子は複雑な人間関係のゲームをしつつも、「友情という檻」に閉じ込められているということだ。だからこそ、その絆を失いかけた女の子は友情のかけらにしがみつく。人気グループの女の子はそれを知っているので、気まぐれに友情のかけらを与えて彼女を操作しようとする。

 「相手を全能視して、自らを相手にゆだねるような友情関係は、暴力をふるう相手から離れられない男女関係に、恐ろしいほど似ている」とシモンズはいう。これは、ドメスティックバイレンスの背景を考えるうえで重要な指摘だろう。

 最後に「女の子の攻撃性」について、印象に残った言葉をひとつ挙げておこう。

 「あるべき姿に確信をもてない女の子たちは、その不安をたがいに表わしあい、必要以上に自己管理し、答えを求めて罰し、いじめ、闘いつづけるだろう」