「いじめツラいと思ったら」法律で戦う!『こども六法』
刑法やいじめ防止対策推進法などを動物のイラスト入りで解説した『こども六法』の著者、山崎聡一郎さんは、自身も小学校の頃にひどいいじめの被害にあいました。山崎さんは今、同じような目にあっている人へ法律を踏まえて「被害者がツラいと思ったら、それはいじめ」であると訴えます。※記事は山崎さんの新著『10代の君に伝えたい 学校で悩むぼくが見つけた 未来を切りひらく思考』(朝日新聞出版)から抜粋しました。
いじめられていた友人をかばったら
ぼくがいじめを受けるようになったのは、小学校5年生の2学期のことでした。 ぼくには低学年のころからよく一緒に遊んでいた友だちがいました。彼は怒ると自分をコントロールできなくなり、叫んだり暴れたりしてしまう子でした。それが原因となりクラスでいじめの標的にされていたのです。 あるとき、いつものように彼は一部のクラスメイトから暴力をふるわれていました。どうしても見ていられなくなったぼくは、思わず彼をかばったのです。 かばってもどうしようもないこと、今度は自分も標的にされるかもしれないこと。こういったことへの自覚はありましたし、逆に今度は自分がいじめられてもいいという覚悟があったわけではありません。ただ「見ていられない」と思い、「思わず」止めに入ったのです。 いじめられていた彼からは感謝されましたが、いじめている側から見ればヒーロー気取りの〝うざい〟存在だったのでしょう。それがきっかけで、あっという間にぼくもいじめの標的になりました。 それから地獄の日々が始まりました。
平和をなくした学校生活
いじめの主導者だった3人組を中心に、苛烈ないじめが始まります。 毎日のように「きもい」「うざい」「死ね」という悪口を浴びせかけられる。6、7人に上から折り重なって乗られる。殴られたり、蹴られたりすることもしょっちゅう。 こうなれば学年全体に「山崎はいじめてもいいやつだ」という認識が広がっていきます。中心にいた3人組ほどひどいいじめではなくても、学年中の多くの子たちがいじめに加担したり、ぼくに暴力をふるったり、暴言を浴びせたりするようになっていきました。友だちもいたはずですが、世界中から虐げられているような感覚があったことを覚えています。 ぼくがかばった友だちはというと、あの日を境にいじめがやんだわけではなく、相変わらずいじめられていました。つまり、いじめの対象が彼とぼくの2人に増えただけ。いじめをしてきた3人組の中心にいた子は、以前はふつうに話したり遊んだりしていた友だちでした。友情とははかないものです。 その後の小学校生活は「正しいことをしたと信しんじているが、どうしてこんな理不尽な目にあわなければならないのか」というやるせなさ、そんな行き場のない苦しみにおそわれながら、すぎていきました。 あまりのツラさに、一度だけ学校を休んだこともあります。わざわざ学校に行ったところで、悪口を言われ、殴られるだけ。わざわざ痛くてツラい思いをするために学校まで行く意味はないと考えたのです。 それなのに学校を休んでいると、なぜか「休んでいる自分が悪いんじゃないか」という罪悪感にかられました。当時は今以上に「学校は行かなければならないもの」という考えが世の中に強くあり、ぼく自身もそう思いこんでいたからです。 結局、罪の意識に逆らえず、休んだのはその1日だけ。次の日から、また憂鬱な気持ちを抱えたまま、重たい足をひきずるようにして学校に行きました。 「なんで昨日休んだんだ」とみんなから聞かれました。純粋な疑問や心配だったようには思えません。「お前は昨日ずる休みした」と責せめられているような感じがしました。
誰も助けてくれなかった
暴力によってできた傷やあざから、まもなく親はぼくがいじめを受けていることに気がつき、担任の先生だけでなく校長や教育委員会にも相談してくれました。 しかし、それでいじめがなくなることはありませんでした。 担任の先生は、いじめの現場に居合わせれば「やめなさい」と注意してくれるようにはなりましたが、ずっと見張っていてくれるわけではありません。先生が見ていないところでは、相変わらずいじめにあいます。 さらに学校も教育委員会も、当たりさわりのない話し合いをしただけで、根本的な解決になるようなことは一切してくれませんでした。聞けばその年の終わりで校長先生が定年退職。「教師人生の最後に汚点を残したくないから自分のいじめを見てみぬふりしているのだ。大人は自分の保身が第一なのか」と悪くとらえてしまうほど、自分は追いつめられていました。 「大人たちに、ぼくのことを救おうという気持ちはまったくないんだ」 この「発見」は、自分が受けていたいじめそのものよりもショッキングなことでした。
人生の意味を考えた日々
そんな絶望感を抱えたまま、6年生になりました。 6年生になって一つだけよかったことは、ぼくをいじめていた3人組とはクラスが別になったことです。ぼくが通っていた学校では他のクラスの教室に入ることはきびしく禁止されていましたから、教室にいるかぎりは安全でした。 でも、どうしたって教室の外を歩かなければならないときがやってきます。トイレに行くときや教室移動のとき、登下校の時間など、ぼくはやつらと出くわさないよう、ずっと細心の注意を払いながら生活していました。にもかかわらず、下校途中に後ろから突き飛ばされ、道路わきの畑に転げ落ちたはずみで左手首を骨折したこともありました。 「何のために生きているのだろうか。誰かから殴られ、蹴られ、罵声を浴びせられながら生きる自分の人生に、意味なんてあるんだろうか」と自問自答する日々でした。 毎日のように「死にたい」と思いながら、ただただ苦しみを味わいに行くためだけに登校し続けたのです。
あなたが「いやだ」と思ったらそれはいじめ
学校で傷ついた経験は、誰でも持っていると思います。それは暴力や悪口といったわかりやすいものにかぎりません。 友だちからの〝いじり〟や、そっけない態度、仲間外しは、外からはなかなか見えにくいにもかかわらず、やられている本人はとてもしんどい思いをします。 そして、いざ自分の身にそうしたことが降ふりかかると、「ツラいと思う自分は弱いんじゃないか?」「このくらいはいじめではないだろう」と思って我慢してしまいがちです。 では、実際にはどこからがいじめになるのでしょうか。 法律の線引きは、とてもシンプルです。いじめを受けている人、つまり被害者が「ツラい」と感じたらいじめと判断されることになっています(いじめ防止対策推進法第2条)。 いじめている側、つまり加害者が「冗談で言っただけ」「ただの遊びだ」と言おうが、学校の先生が「これくらいは我慢するべき」と言おうが関係ありません。本人が、「あの子たちと一緒にいるのがツラい」「学校に行くのが怖い」と感じているなら、それはいじめと判断していいのです。 「そんなにハードルが低いの?」と思った人もいるでしょう。なぜそうなっているかと言うと、いじめの被害者が「自分はいじめを受けている」と自覚する基準が、法律どころか、一般的に認識されているいじめのイメージよりも、はるかに高い場合が多いからです。
悪いのは100%いじめる側
「悪口を言われているけど、冗談交じりだからいじめではないかも」「体育の時間にボールをぶつけられたけど、わざとじゃないかも」 「無理やりジュースをおごらされたけど、みんなと仲よくするためには仕方ない」 などと、被害者は自分のツラい気持ちをごまかしてしまいがちです。こうして今自分が置かれているツラい状況を受け止められないままあれこれ悩んでいるうちに、じわじわと心身が追いつめられていきます。 さらに言えば、いじめの加害者や先生、周囲の人が「これはいじめだ」と認識するのはとてもむずかしく、「これくらいは大丈夫だろう」と軽く考えがちだという問題もあります。そして、いじめの発見と対策が遅れていくにつれて、取り返しのつかない深刻な状況になってしまうのです。 だからこそ法律のハードルを一気に下げることによって、被害者が声を上げやすく、周りの大人も極めて早い段階でいじめを解決するために動けるようにしようとしているのです。 でも、加害者はともかく、どうして被害者自身も「これはいじめだ」と認識するハードルが高いのでしょうか。 それは、いじめを受けていることに対し、「自分が悪い」と思いこんでいるからです。 学校では「いじめは悪いことです」と教わっているはずなのに、なぜか自分に原因があると思ってしまう。「わたしが何か気にさわるようなことをしたから」「ちゃんと言い返せないからダメなんだ」と自分を責めて、「誰かに相談しても、どうせ助けてもらえない」「自分さえ我慢していれば」と思いこんでしまいます。 ふだんの生活やニュースで「自己責任論」という意見に触れたり、両親などの身近な大人から「やられたらやり返せ」と言われたり、「喧嘩両成敗」ということわざが頭をよぎったりということも原因の一つになるかもしれません。 でも、この本を読んでいるあなたがもしもいじめに悩んでいるなら、このような考え方はすべて一旦忘れてください。 いじめはやる側が絶対的に悪いのであって、いじめられている側に原因があるからどうとかは、まったく考える必要はありません。 たとえ被害者に原因があったとしても、いじめが正当化されることはありません。理由があれば人を殺してもいいということにならないのと同じです。 だから、いじめを受けていることについて、どうか自分が悪いとは思わないでください。
告発はたくさんの人を救う
相談することも、決して恥ずかしいことではありません。「私はいじめを受けている」と声に出して言うことは、同じようにいじめで悩んでいる人を救うことにもなります。 あなたが泣き寝入りすれば、あなたの次に同じ加害者によっていじめにあう人が後々に出てきます。 さらに「私はいじめを受けている」と告発することは、なんと、いじめ加害者をも救うことになります。いじめは加害者も「自分はいじめている」とは自覚しにくいもの。その自覚のしにくさが、いじめのエスカレートにつながります。 いじめ問題について人生の大半をかけて考えてきた者として今思うのは、ぼくをいじめていたやつらのほうが、ぼくよりも日常的に大きなストレスを抱えていたということです。思えば彼らは親が離婚していたり、家族の中でもめごとがあったりと、何かにぶつけなければ気がすまないような、大きなイライラを抱えている人たちでした。 もちろん、だからといっていじめ行為が正当化されるわけではありませんが、いじめを告発することで彼らのイライラの原因を発見し、そこから救うことにもつながります。さらに、知らず知らずのうちにいじめを悪質化させていく加害者の罪を食い止めることにもつながるのです。 いじめの加害者がもともと友だちだったりすると、「友だちを悪者にしてしまうかも」と心配するかもしれませんが、むしろ加害者をこれ以上の悪者にしないためにも、告発は必要なのです。 このように、自分が受けているいじめを告発することは、実はたくさんの人を救うことにつながっています。だからもし、自分のために告発する勇気を持てないのであれば、みんなを助けるつもりで周囲に相談してほしいと思います。
そんな学校なら行かなくていい
学校でいじめなどの理不尽な目にあっているとき、「学校に行きたくない」と思うのは当然のことです。 暴力を受ける、悪口を言われる、仲間外れにされるといった行為は、どれも苦痛以外の何ものでもありません。人生にとってなんのプラスにもならないばかりか、学校に行けば行くほどひどい目にあうわけですから、そういう場合は迷わず学校を休むべきです。 学校に行かないことは、法律違反ではありません。学校に行くことは「義務」ではなく「権利」なのです。子どもを学校に通わせることについて、義務があるのは親や学校の先生のほうです。 日本国憲法第26条には、次のように記されています。 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」 どういうことかというと、子どもが「教育を受けたい」と思ったとき、大人にはその子のために学べる環境を整える義務があるという意味です。それは、「行きたくない」と言っている子どもを、無理やり学校に引きずっていくという義務ではありません。 そうではなくて、むしろ大人には、子どもが自分から「行きたい」と思えるような、魅力的な場所に学校を変えていく義務があるのです。ですから、いじめにあっている子どもがいるのであれば、その子が安心して学校に通えるように、大人たちには当然、問題解決に向けて動き出す義務があります。 ぼくはいじめを受けながらも、いやいや小学校に通っていましたが、もし当時の自分にアドバイスできるなら「そんな学校には行かなくていいよ」と言います。当時のぼくが望んでいたのは、誰からも暴力をふるわれたり、ひどい言葉で傷つけられたりしないで、ふつうに学校生活を送ること、ただそれだけでした。 そんな最低限の安全も守られていないような環境に、我慢をして行く意味はまったくなかったのです。