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少年時代のいじめ、野球に救われ導いた金メダル

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東京五輪 トーナメント決勝 日本2-0米国(7日・横浜スタジアム)  野球日本代表「侍ジャパン」が決勝で米国を下し、公開競技だった1984年ロサンゼルス五輪以来37年ぶり、正式種目としては初の金メダルに輝いた。村上(ヤクルト)の決勝弾を森下、栗林(ともに広島)らの完封リレーで守り5戦全勝。稲葉篤紀監督(49)は少年時代のいじめを乗り越え、野村克也氏(享年84)や星野仙一氏(享年70)らの教えを継ぎ、19年プレミア12に続く世界大会制覇を果たした。

24人の侍に押し上げられ、稲葉監督が横浜の空を独り占めした。心地よい浮遊感が、背負ってきた重いものを忘れさせてくれた。五輪、5戦全勝。同じ数だけ舞い、号泣しながら選手たちと抱き合った。魂を焦がし、死力を尽くし、行き場のなかった13年前の無念を、金メダルという勲章に昇華させた。  「いや…もう最高ですね。最後にグッと来ました。北京の悔しさは私個人のことだが、選手の金メダルをとりたいという思いが強かった。結束して、勝ち切れて、最高の気分です」  3大会ぶりに野球が復活した東京で84年ロサンゼルス大会以来の頂点。選手としてメダルを逃した08年北京五輪の雪辱を、監督として果たした。北京の準決勝で敗れた韓国を撃破。同大会でメダルを阻まれた米国の壁も2度、乗り越えた。「五輪の借りは五輪で返す」。監督に就任した4年前に描いた夢をかなえた。37年前、ドジャー・スタジアムで日本が世界を制した日と同じ8月7日の歓喜だった。  全身全霊のタクトに知将の教えが宿った。プロ1年目の95年から、ヤクルトの野村克也監督に「一番野球を覚える」と説かれた2番で多く起用された。準備、配球、作戦。昨年亡くなった名将の下で経験した緻密(ちみつ)な日本野球の縮図は、采配の原点となった。2番に強打者を置く潮流も求め、出した答えは「2番・坂本」。背番号6は最適解として道の先頭を走った。  五輪との縁は、北京を率いた星野仙一監督によって結ばれた。でん部を痛めていた大会前、電話が鳴った。「出たいんか、出たくないんか、どっちや」「出たいです」。「分かった」―。血が騒いだ。「僕も気持ちの強い選手を選ぶ」。18年に亡くなった闘将から代表監督の根幹を学んだ指揮官は、13年後、電話を手に既視感を覚えた。「けがはどう?」。5月下旬。相手は同月9日に右手親指を骨折し、リハビリ中の坂本だった。代表コーチ時代の14年から続く師弟関係。阿吽(あうん)の呼吸で招集が決まった。  「稲葉さんを男にしたい」。坂本は師と共有する思いを目いっぱい示した。5月に右手親指骨折を招いたヘッドスライディングで本塁に突っ込み、適時打を放てば力の限り拳を突き上げた。決勝戦の円陣では声出しを託され、侍を一つにした。かつて稲葉監督が闘将に注入された情熱と覚悟を、今度は背番号6がグラウンドで体現した。  偉大な師の教えを土台としつつ独自の監督像をつくり上げ、監督未経験からプレミア12に続く世界制覇と最前線を駆けた。最大の特色は「選手ファースト」。新時代のリーダーの源流は、37年前の悪夢に遡る。  「あの時、人の痛みを知った」。小学6年の稲葉少年は、サッカー部の主将就任を一人に妬まれ、いじめに遭った。クラスメート一人の指示で全員に無視された。泣いた。唯一、絶望を忘れさせてくれたのが野球だった。  「野球をやっていると自分が強くなっている気がした。僕は野球に助けられた」  痛みを知った少年は感謝と優しさを忘れず生きた。代表招集時は決まって「ありがとう」から始まった。先発を外す選手には「申し訳ない。後から頼む」と頭を下げた。飛行機は選手にビジネス席を譲り、エコノミー席に座った。「監督のために」と思わせる人間力が至高の結束を生んだ。  「弱い人間だったから、人の気持ちが分かってあげられるようになったのかな」  37年前、教室で孤独だった男の周りでは仲間たちが笑っていた。少年時代に流した悲しみの涙、13年前の悔し涙とは、まるで違う歓喜の証しがほおを伝った。  「最高のメンバーと過ごせて、最高の結果が出て…。いろいろな支えがあり、私の中では感謝しかない。感謝をしながら、恩返しができるように戦って、それを選手たちが達成してくれて、本当にうれしい」  野球に救われ、野球に育まれた人生。稲葉篤紀の心が日本野球界に金色の輝きをもたらした。(宮脇 央介)  ◆稲葉 篤紀(いなば・あつのり)1972年8月3日、愛知・師勝町(現北名古屋市)生まれ。49歳。中京(現中京大中京)高、法大を経て、94年ドラフト3位でヤクルト入団。2005年にFAで日本ハム移籍。06年日本シリーズMVP、07年首位打者最多安打ベストナイン5度、ゴールデン・グラブ賞5度。08年北京五輪、09、13年WBC日本代表。13~17年侍ジャパン打撃コーチを経て、17年7月から侍ジャパン監督。通算2213試合で2167安打、261本塁打、1050打点。打率2割8分6厘。左投左打。