「神学」から考える「いじめの人権」
<ICUの「キリスト教概論」がリベラルアーツに強い学生を育てる理由。話題の本『ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う』の一部を抜粋紹介、第2回>
国際基督教大学(ICU)で人気の必須教養科目「キリスト教概論」を書籍化した、魯 恩碩(ロ・ウンソク)著『ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う』(CCCメディアハウス)は、個人が多様な他者と出会っていくこの世界で、愛し、赦し、共に生きるためのヒントを与えてくれる一冊だ。
日常の、そして世界で起きている問題の多くは、一つの答えでクリアに解決できるものではない。ときに、まったく相容れない思想や意見に接することもある。そんなとき、どう処すべきか? 解が一つではない12の問いに、7人の学生と、著者である魯教授が真摯に向き合う『この理不尽な世界で「なぜ」と問う』は、まさにICUの教育理念を体現した「究極のリベラルアーツ本」と言える。 本書より、一部を抜粋紹介する連載第2回は、『第一講 一人の犠牲で、みんなが幸せになれるとしたら?:この世界を見るための「準拠枠」』より、人間の尊厳について考える対話をお届けする。 ■二度失敗したら、三度目はどうなると思いますか? 教授: 皆さんは「準拠枠」という言葉をご存じでしょうか? 英語の「Frame of Reference」という言葉とだいたい同じです。 私たちは物事を理解したり、考えたり、行動したり、判断したりするときに、「己の中に存在する、ある基準」に従って、行為や態度を決めます。この判断の拠りどころを、「準拠枠」と言います。「準拠枠」は生まれ育っていく過程でつくられていきます。誰しも自分なりの 基準を持つようになっていくのです。 皆さんにこんな質問をしてみましょう。 あなたは二度失敗しました。三度目はどうなると思いますか? 岡田: 三度目は成功するんじゃないでしょうか。 田村: 私は......。うん、やっぱり成功するかなと思います。 教授: 皆さん、ポジティブでいいですね。しかし、「また失敗する」と答える人もきっといるでしょう。昨年の授業では「秋になったら?」と聞いてみました。ある学生は「紅葉がきれいになる」と答えました。別の学生は「寂しくなる」と答え、なぜか「彼女が戻って来る」と答えた人もいました。何があったのかは、わかりません(笑)。 同じ一つの事柄でも、人それぞれ、感じ方や考え方は異なります。「寂しくなる」といった学生の感情を理解するためには、「紅葉がきれいになる」という「自分の準拠枠」だけが絶対ではないと理解する必要があります。「私の準拠枠」とは、世界に、人の数だけ存在しているかもしれない多様な準拠枠の一つである。そう認識することが大切です。「私の準拠枠を通して見る世界が、いちばん正しい世界である」という先入観のレンズを少し外してみることが、自分のものとは異なる準拠枠を理解することにつながります。
人権は大切だけど、人権って何?
■人権は大切だけれど、人権って何ですか? 教授: さて、本題に入りましょう。今日は人権と、人間の尊厳について考えます。唐突に聞こえるかもしれません。しかし、人権や尊厳について考えることは、準拠枠を広げることにも関係してきます。まず、皆さんの人間観について質問いたしましょう。 果たして人間は、尊厳を持つ存在なのでしょうか? もし尊厳を持つのであれば、それはなぜでしょうか? いろんな答えがあるでしょうね。 この問いは、次の問いとも密接な関係があります。それは、 なぜ人間は生まれながらにして人権を有する存在なのか? という問いです。一九四八年に制定された世界人権宣言によると、人権が存在するのは人間が尊厳を持つ存在だからです。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と、宣言の第一条に記されています。 私たちは「人権」という言葉を日常生活で耳にすることがあります。たとえば、毎年十二月十日は世界人権記念日(World Human Rights Day)です。日本でも、十二月四日から十日は人権週間です。 「生存権」や「自由権」、「社会権」などの基本的人権は、近現代民主主義社会の核心的な理念です。現代民主主義社会は、「人権」という思想の土台の上に成立していると言ってもいいのです。先進国だろうと、開発途上国だろうと、「人権」という概念を無視することはできない世界に、いま私たちは生きています。でも、「人権」を突き詰めて定義しようとすると、簡単ではありません。まず、人権の土台になっている「人間の尊厳」について少し考えてみましょう。先ほどの世界人権宣言によれば、人間は「人権」を有するほどに尊い存在ですが、その根拠はどこにあるのでしょうか? なぜ、人間は尊いと言えるのでしょうか? この問いに答えられる人は? 鈴木: 人間が唯一無二の存在だからかなぁ。人は皆、違っています。外見も性格も。唯一無二であるということが、人をかけがえのない存在にしてくれるんじゃない? カールセン: 動物も植物も、唯一無二だよね。石ころも、コロナウイルスもゴキブリも唯一無二と言えばそうだよ。でも、全然尊くないなぁ。ぼくは、人は他者から愛されたり、大切にされたりするから尊いんじゃないかと思うんだけど。 鈴木: その意見も少しもろくない? 大事にしてくれる家族がいなかったり、愛してくれる人がいなかったりする人はいくらでもいるよね。そういう孤独な人たちは、人間としての尊厳を持っていないってことないっしょ。
人権とは「発明」か、「発見」か?
■人権とは「発明」か、「発見」か? カールセン: ぼくは「人権」って、人間がつくり出した概念だと思います。共同体で生きていくとき、他者と調和して生活するために必要な考えだった......そんな気がしています。「神様」の存在と似ているかも。神も、人が生きる都合に合わせて考え出したものだよね。 楊: 私も人権や尊厳は、社会がうまく機能するために、言うなれば建前として必要なものとして、人がつくった概念だと思います。ある種の歯止めみたいな。 金: 私はいままで、人権や尊厳の根拠は世界人権宣言にあると考えていました。けど、世界人権宣言が成立したとき、その根拠には人間の尊厳に対する信念があったと考えるなら、人権や尊厳が先なのか、世界人権宣言が先なのか、わからなくなってしまいました。歴史を考えると、人権や尊厳が最初からあったようには思えません。やはり、歴史のなかで人間がつくり上げた、あるいは発見したということなのかな。仮に人間がつくったのだとしたら、それは自己防衛のためだったんじゃないでしょうか。(略) 教授: 皆さんの多くは、人権やその土台である人間の尊厳というものは実体的には存在しない。社会全体の利益のために建前としてあることにする、社会的に約束された規範だと考えているようですね。 では、人権や人の尊厳は、人間によって「発明」されたものなのでしょうか、それとも、「発 見」されたものなのでしょうか。どちらの立場を取るかによって、かなり異なる人権観が成 り立ちそうです。 ■犠牲者のうえに社会的調和が成り立つ二つのフィクション 教授: 人権とは「発明」なのか「発見」なのか? その問いをふまえて、二つの小説『くじ』と『オメラスから歩み去る人々』について考察しましょう。事前に配布したものを読んできていますよね? 『くじ』(The Lottery)はシャーリイ・ジャクスン(Shirley Jackson:1916 -1965)というアメリカ人作家による短編です。彼女の名を冠した賞もあるほど、知られた作家です。『くじ』はこんな話です。 舞台はある小さな村。三百人ほどが暮らしています。真夏のある日、幸運を期待する様子で村人たちが広場に集まりました。子どもは石を集め、大人はくじ引きの儀式の準備をしています。この村では毎年、住人全員でくじ引きを行うのです。 儀式は楽しい雰囲気ではじまりました。しかし、徐々に緊張感が高まっていきます。そして、やがて、このくじ引きが重大な意味を持っているということが明らかになります。物語は、くじに当たった人を石で打ち殺すというショッキングな結末で終わります。
子供をいじめることで維持される幸福
金: ストーリーは異なりますが、アーシュラ・K・ル・グィン(Ursula K. Le Guin:1929 -2018)が書いた『オメラスから歩み去る人々』(The One Who Walk Away from Omelas)と設定が似ていますよね。この小説も「一人の犠牲者と集団」という設定です。小説のように極端ではありませんが、現実社会でも、多数の人々のために少数の人々を切り捨てるようなことは多々あります。 教授: 『オメラスから歩み去る人々』のあらすじも少し紹介してくれませんか。 金: はい。 世界のどこかに存在するオメラスという町の話です。オメラスは治安も良く、経済的にも豊かで、すべてにおいて理想的な楽園です。貧困も、人種差別も、暴力もありません。戦争や犯罪もありません。しかし、この町にも一つだけ、暗い闇があります。町には一人、虐待されている子どもがいるのです。この子は、暗く不潔な地下に閉じ込められています。生き残るための最低限の食糧だけが与えられ、日常的に殴られているのです。 オメラスの幸福は、この子をひどくいじめることを条件にして維持されているのです。この子を地下室から救い出せば、町の幸せはすべて水の泡のように消えてしまいます。物語は、一群の人々が、その子の姿を見た後、オメラスから歩み去るところで終わります。 岡田: オメラスを去った人たちは、どこに向かったのか。それは作品には書かれていません。 ぼくは、彼らが向かった先には、あの子のような犠牲者が生まれない社会があるのだと思って読みました。 でも、そんな社会はあるのかな。この日本だって、オメラスとはまた違った苦しみや悲しみに満ちています。ぼくたちが、使い、食べ、着ているものはどこかの国での不当な労働の成果かもしれない。ぼくたちの世界は、そういう意味で、オメラスやくじを引く村に似ているのではないか。 ぼくたちの世界がオメラスやくじを引く村と違っているのは、この世界で搾取されている人間は一人ではない、という点です。経済的に貧しい国で労働を強いられているたくさんの人々がいます。それを知りながら、ぼくらもまた物語の世界の住人のように、見て見ぬふりをしています。(略) 鈴木: 私には他者を犠牲にして生きているという実感はないかも。誰かの労働のおかげでサービスを受けているって感じ。その労働者がみんな不幸なのかなぁ。もちろん無理矢理に働かされている人もいるとは思う。でも、「自分の生活が、無理矢理に働かされた誰かのおかげである」って考えには、けっこう驚いたかな。日本はどんどん不景気になっているから、自分が経済的に搾取されていると感じる人も多いってこと? 金: 私は『オメラスから歩み去る人々』には、「多くの人が幸福になるために、一人を犠牲にしてもいいのか」という人権問題が横たわっていると感じました。言うなれば、虐待されている子が私たちの世界のマイノリティです。学校での「いじめ」のシチュエーションに似ています。いじめが起きているクラスでは、いじめられている人がいるから、他の人たちは自分は安心して生活できるし、いじめられている人を救おうと動けば、自分に火の粉が降りかかると考えています。オメラスでも同じです。オメラスや、いじめが起きているクラスでの多数派のあり方は、多くの人を幸福にする選択かもしれません。でも、マイノリティのことを考えると、最大多数の最大幸福が最善と言えるかは疑問です。
「最大多数の最大幸福」はどう測る?
■「最大多数の最大幸福」はどう測る? 遠藤: 私はどの意見にも同意できないな。みんなは、「くじを引く村やオメラスの民の幸福は正当なものではない」という前提で話していたね。しかし、私はそのスタンスにまず疑問がある。確かにオメラスの住人の幸福は一人の犠牲の上に成り立ってはいる。しかし、そのことで必ずしも「オメラスの人々が不当である」、つまり不正義である、とは言えないのでは? ある社会変化が、もっとも恵まれない人々の境遇を向上させないとする。しかし一方で、その社会変化は恵まれた人々の境遇を向上させているとしよう。そのとき、私なら、その社会変化を支持することは正当だと考えるよ。いちばんの不正義は、誰の境遇もよくならない状況ではないか。犠牲者の境遇が向上しないからといって、それが不当であると決めつける権限は誰にあるのだろう。ベンサムの功利主義が追求する「最大多数の最大幸福」の考えに基づけば、一人の犠牲者の幸福より、より多数の人々の幸福が保証される状態がベターではないかな。(略) 岡田: でも、「最大多数の最大幸福」って、誰が測るの? 幸福にはいろいろあるけど、オメラスの民が感じている幸せの総計を「プラス1」と数え、虐待されている子の不幸を「マイナス1000万」と数えることだってできますよね。ソクラテスはこんなことを言ってます。 「善く生きることと美しく生きることと正しく生きることとは同じだ」 少なくとも、ぼくにはくじを引く村やオメラスの住人が、「善く」、あるいは「美しく」、ましてや「正しく」、生きているとは思えないよ。ただ生きるのではなく、善く生きることが大切なのではないでしょうか。 教授: では、もう一つ質問してみましょう。 皆さんがオメラスの市民であるとすれば、オメラスの状況を倫理道徳的に受け入れることができますか? あるいは、できませんか? 一人の子の犠牲の上に成り立つ幸せを受け入れますか? それとも拒否しますか? カールセン: 私はたぶん、オメラスでの幸せを受け入れます。たくさんの人の幸せとたった一人の不幸を天秤にかけると、やはり、より多くの人の幸せを選ぶべきではないかと思いました。どうしても他人のことは自分のことのように考えることができないし......。先生の問いは、究極的なところ、己に正直になるか、それはつまり、他者の犠牲に目をつぶるか、あるいは、第三者から善人と思われる選択をするかを問う質問ではないでしょうか。私は......やはり、自分に正直に生きたい派ですね。(略) 田村: 私は、どうしてもオメラスでの幸せを受け入れることはできません。誰であっても、小さい子を不幸にしてまで、自らの幸福を追求する権利がないと思うからです。 遠藤: その権利があるかどうかは、誰が判断するんだ? 人はそもそも、「虐待されない権利」を持って生まれるのか? 現実の世界には、虐待されている人が数多く存在しているんだ。 一人の犠牲で社会全体の幸せが保証されるのであれば、それはそれでいいと思う。この世界のありのままの現実ってそういうものでは?
人権は都合が良いものとは限らない
■「この世界のありのままの現実」と究極的リアリティ 田村: 「この世界のありのままの現実」って何? 今日の冒頭、先生は「究極的リアリティ」〔※編集部注:物理的現実を超越した現実〕について触れました。遠藤さんが言う「この世界のありのままの現実」は、少なくとも私にとっては「究極的リアリティ」ではありません。聖書のコリントの信徒への手紙二の4章18節に、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と書いてある通りです〔※編集部注:田村はキリスト教徒〕。 究極的リアリティにおいて、人には尊厳があるんです。だから私は、どんなに小さく無力な人でも、虐待されたり、拷問されたりしてはいけないと思います。 教授: 社会全体の幸福のためであっても? 田村: はい。 遠藤: それはなぜ? 最初のトピックに戻るけど、人権や、その土台になっている人間の尊厳は、「発見」なのか「発明」なのか。人権や人間の尊厳は、社会をうまく回すために人間がつくり上げた概念、つまり「発明」に過ぎないよ。社会全体の幸福や利益のために、「建前として、ある」ということにすると、人の尊厳は社会的に約束されたものでしかない。(略) 教授: 今日取り上げた二つの話は、いろんな解釈ができるでしょう。 私にとって、この二つの話は、人権や、人間尊厳の在りかたについての問いかけです。人権や人間の尊厳は、社会を動かすために人間がつくり上げた概念なのか、それとも、それらは人間の理性以上の存在としてすでにあり、人間は歴史の流れのなかで、それをただ見つけた、気づいた、と考えるべきなのか、という問いです。 皆さんの多くが、人権や人間の尊厳は、社会全体の利益を促すもので、そのために考案されたもの、つまり「発明」であると考えました。しかし、私は思うのです。人権は社会にとってそんなにいつも都合が良いものであるとは、言えないのではないか。たとえば、オメラスの話に戻ると、一人の子どもの人権を守るために、社会全体の幸福の形について反省し、それを変えていく努力が必要な場合もありえると思います。 この問いに対して正解は一つであるとは言えません。ただ、皆さんがどのような選択をしていくかについて、じっくり考えることは有意義です。その際、神学、いわゆるキリスト教の価値観と世界観について学ぶことは、きっと助けになりますよ。