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いじめを“見て見ぬふり”することは罪か…

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葬式から始まり、いじめのシーンへと物語は展開していく。そのシーンはあまりに衝撃的で、胃がギュッと掴まれるような感覚を味わうこととなる。ただここで、その事実に目を背けないでほしい。この痛みが自分のものだと実感してみてほしい。目を背けたいものにこそ、目を向けなければならない。見て見ぬふり、それは人間としての醜さを表し、一生の後悔へと繋がっていく。

 

いじめを苦に自殺、そんなニュースがあとを絶たない。私は学生でもないし、子を持つ親でもない。ただこの手のニュースが出ると、加害者への憎しみ、被害者への憐れみ、そして周囲の人間への苛立ちを感じてしまう。加害者に対しては、なぜ個人を侵害する権利があるのかということ、被害者には、先の人生があるのだから、もっと生き続けて欲しかったということ、そして周囲の人間に対しては、どうして気づいてあげることができなかったのか、どうして見て見ぬふりをしたのかということを。私は完全に、第三者の目線で見ている。見て見ぬふりをする、もしかしたらその立場にいた人間が、一番じわじわした心の痛みを、長く強いられることになるのかもしれない。そこには助けたいが助けることができないというジレンマ、加害者には欠乏している良心も存在する。そしてその良心こそが、自分自身を追い詰め、苦しめていくのだ。

 この映画は事実から目を背け、見て見ぬふりをした人間の、苦悩と後悔を描いた作品だ。人より自分を守ろうとした弱者の話、と言った方がいいだろうか。いじめの対象であり、幼馴染でもある同級生を助けることができなかったユウ、被害者の好意を突き放したサユ、生徒の死を責任転嫁する教師、異変に気づきつつ、息子と向き合うことを避けていた母親。立場は違えど、誰も被害者本人と向き合おうとはしなかった。これがいじめの現実であろう。誰かが手を差し伸べていれば、事情は変わっていたのかもしれない。

日本は「言わない」というのが正しい文化、とされているような節もある。言いたいことを口に出さない、言ったら自分の立場が悪くなる、嫌われる。本音をぶつけず、すべてオブラートに包むようなやり方が日本人は好きであり、自分の考えをはっきり口に出せば、群れから外される恐れもある。ただこれはあくまで、日本のスタンダードであって、世界のスタンダードでもなければ、人間のスタンダードでもないだろう。人として言うべきことを、あえて言わずに過ごす文化。そこに優しさを感じることもあれば、その優しさは時として凶器になる。私はこのような文化を恐ろしく思う。

ただ、見て見ぬふりをするような生温い人間こそ、人生を器用に生きているような気がするのは私だけだろうか。実際映画の中でも、被害者家族がずっと荒んだ心を引きずりながら生活しているのに対し、罪悪感を感じながらも、事実に蓋をし、要領よく幸せな家庭と生活を築いている主人公ユウ。表面上は幸せに見える。でも元を正せば、臭いものに蓋をして生きているだけに過ぎない。臭いものに蓋をして放置しておけば、ずっと臭いままそこに存在するだけだ。つまり物事の本質を見ずに、幸せなふりを続けているだけなのだ。彼らは見えない十字架を背負って生きている。本人は気づいていないかもしれないが、実は世の中にはこういう人間は沢山いる。

ただし、表面上幸せに見えようと、人生は平等なのだ。このような人たちには残念ながら、この先何らかの罰が待ち受けているはずだ。気づかなければ気づくまで、それは追いかけて来るだろう。だからこそ人は悔いのないよう、自分の心に誠実に生きていかなければならない。この作品はいじめ、自殺という究極を題材にしているが、見方を変えればいかようにもとれる。私自身も一人の人間として、不誠実な生き方に流されぬよう、自分というものをしっかり持って生きていこう、そう心に誓った。

■公開情報
『十字架』
公開中
監督・脚本:五十嵐匠
出演者:小出恵介木村文乃富田靖子永瀬正敏
原作:重松清「十字架」(講談社文庫刊) 
配給:アイエス・フィールド
(c)重松清講談社/(c)2015「十字架」製作委員会
公式サイト:http://www.jyujika.jp/

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