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映画『聲の形』がメジャーになった理由

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予想を大幅に超える『君の名は。』の国内でのムーヴメントに続き、映画『聲の形』もまた、比較的小規模の公開館数で大健闘を見せている。山田尚子監督の劇場用作品としては、『映画けいおん!』を思い出させる大ヒットだ。しかし、そのヒットの内容には決定的な違いがあるように思える。

 制作会社「京都アニメーション」は基本的に、一種のコアなアニメファン、いわゆるオタク層向けに理想化された美形キャラクターの魅力を前面に押し出す作品を発信してきた。山田尚子監督のTVアニメシリーズ「けいおん!」や『映画けいおん!』もまた同様である。かつての「けいおん!」フィーバーは、このような「萌えアニメ」の価値観が一般層の一部に波及するようなかたちで巻き起こった。それは同時に、楽曲のリリースや関連グッズ、映画を3回鑑賞するごとに記念グッズがもらえるスタンプカードなど、作品自体とは別の、拡張性を持ったビジネスモデルの成功をも意味していたといえる。アニメ作品のきわめて意識的なアイドルビジネス化である。

 そのような商業性は、作品自体にも影響をもたらしていた。「けいおん!」に登場する女子高生たちは、本質的には女子高生風のアイドルである。作品は彼女たちの日常の生活を描きながらも、男性ファンにとって理想化された行動をとり、恋愛を想起させる描写を周到にほぼ排除するなど、ドラマが不自然なものになっていたのは明白である。このような限定された価値観のなかにある作品は、ヒットを成し遂げたとしても、本当の意味での「メジャー」にはなり得ないはずである。

 本作、映画『聲の形』は、そのような購買層を強く意識したアイドル的な売り方ではなく、ドラマを優先させるスタンダードなつくりの作品だ。一般的な観客が、前述のような価値観とは、ほぼ関係なく劇場に足を運んでいるのである。日本のアニメーションは、ここ十数年、少子化による視聴率の低迷などの問題から、ターゲットを絞った作品を多く作り続けてきた。しかし、『君の名は。』や、映画『聲の形』など、RADWIMPSaiko による主題歌を作品に取り入れていることが分かりやすく象徴しているように、より一般層にリーチするようなつくりの作品がヒットしたことによって、アニメ作品のメジャー傾向が、今後は加速していくのではないかと思われる。それは、日本のアニメ界全体としては明るい材料だといえそうだ。本作の山田尚子監督にとっても、このことで、作るたびに自身の作家性を自由に発揮し、より普遍的な方向にシフトすることができると考えられるのである。

ヒロイン西宮硝子の「勝利」

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 大今良時による原作コミック「聲の形」は、青春ラブストーリーのジャンルにあてはまるものの、それよりもむしろ障害者へのいじめや対人恐怖など、かなり衝撃的で重いテーマを扱っているという印象の方が強い。映画『聲の形』は、この変則的な内容を、かなり忠実に映像化している。

 主人公の男子高校生、石田将也(いしだ しょうや)は小学生時代に、先天性聴覚障害を持つ同級生、西宮硝子(にしみや しょうこ)に対し、学校内で日常的に、悪質ないじめ行為を繰り返していた。その後、将也は学級裁判をきっかけに、自分がいじめを受ける側になってしまう。さらに、高額な補聴器の弁償や、硝子の母親への謝罪に奔走する自分の母親の姿を見て、自分が深く考えず引き起こしてしまった行動の重大さを実感することになる。一転して自責の念に駆られた将也は、自分を「生きる価値のない人間」だと感じ、自殺をしようと決意していた。だが、その前に硝子に謝罪をするべきだと考え、彼女に会いに行くことになる。手話を覚えできるだけの謝罪を続ける将也の姿を見て、いつしか硝子は特別な感情を抱き始める。

 先天的な障害をからかい笑いものにして楽しむような、最低の行為をしていた過去を持つ人間を主人公に設定し、罪を償っていくという陰鬱な物語に、恋愛の要素を絡めていくというのは、ある意味で斬新だといえるだろう。この点について、「被害者が簡単に加害者を許してしまい、恋愛感情までもを持つという展開が不自然であり、いじめという行為を生易しく理解し過ぎている」というような声が挙がっているのは確かである。その批判は、一面では正当なものだといえる。そもそも、何年も経って被害者に会いに行くという行為自体が、相手の心情を無視した自分本位のものだと判断されるのはもっともである。

 ただ一方で、原作者や本作の脚本家の意図は異なる部分にありそうだ。硝子が将也を許すというのは、彼女が「あまりに寛容すぎる」からではない。硝子は大人しいように見えて、小学生時代に取っ組み合いをするなど、激しい気性を持ち合わせているキャラクターである。将也をはじめとするクラスメートたちから何度となくひどい扱いを受けても、彼女は「自分が誠意を持って相手に接すれば、いつかきっと理解してくれ友達になってくれる」と信じ、執拗に一貫した誠意ある態度をとり続ける。彼女は一度、こうと決めたら突き進み続ける強情な性格なのである。だから、小学校を卒業して何年も経ってから将也が現れ、自分から「友達になれるか?」と言わせたというのは、彼女の愚直な意志が、最終的に勝利を収めたということを意味している。

「人は変われない」という呪い

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 近年とくに、一部の作品に対し「障害者を感動の道具にしているのではないか」という指摘がなされるようになった。「難病による恋人や家族との別れ」や、「自分の障害と健気に闘う姿」などの要素を使い、「泣ける作品」として、涙を搾り取ろうとするだけの安易な態度の作品が一定数あるのは確かだ。

 ただ本作は、「聴覚障害」という特徴的な要素がクローズアップされていくのかと思いきや、じつはドラマの展開において、その要素はそれほど重要なものとしては扱われていない。ここで描かれる聴覚障害による苦悩やディスコミュニケーションは、他の障害だったり、性格や身体的特徴などに置き換えることも可能なはずである。本作は、障害者の特徴を実際より大きく扱うわけでも、また起き得る現実社会との摩擦を無視するわけでもなく、ヒロインがたまたま聴覚障害を持っているに過ぎないと思わせるほど、自然に描かれている。それよりも重視されているのは、本人の内面的特徴である。このようなバランスで作劇をするというのは、かなり画期的なことではないだろうか。

 むしろここで不自然なものとして取りざたされているのは、将也の精神的問題についてだ。彼は、「自責の念」から「自己嫌悪」を引き起こし、そこに自身が受けたいじめ体験が加わることによって、高校のクラスメートなど身の回りの他人が、いつでも自分の悪口を言っているのではないかと怯え、他人の顔をまっすぐ見れないようになってしまう。

 非常に面白いのが、将也の主観を通すと、クラスメートなど彼が恐怖している人物の顔全てに、「×」(バッテンマーク)が貼られているという演出だ。このマークは、人付き合いをする前から相手に対し、「自分に悪意がある」、「自分をあざけり笑っている」という「レッテル貼り」を事前に施すことによって、裏切られまいと過剰な自己防衛を講ずるようになってしまっている精神状態を意味している。このような「対人恐怖」の戯画化は、かなり分かりやすくリアリティのある見事な表現となっている。

 この恐怖の源泉は、彼の小学校時代の失敗体験である。その「自責の念」を克服することで「自己嫌悪」を払拭し、自分自身を信頼し自信を持たなければ、他人に立ち向かう勇気は得られない。もし彼が自分自身を許し、好きになることができたなら、この恐怖から逃れ得ることができるのである。それは一種の「呪い」とも言い換えることができる。

 将也に好意を寄せる、やはり小学生時代にいじめに加わっていた植野直花(うえの なおか)も、その「呪い」に巻き込まれている。彼女は、「西宮硝子さえいなければ、私たちは何の問題もなかった」と振り返る。確かにそうだったのかもしれない。だが、それは正確な表現ではない。西宮硝子という強情に誠意を示す存在が現れることで、彼ら小学校のクラスメートたちの、もともと持っていた醜い差別意識が、あぶり出されてしまったのである。西宮硝子は、まさに「硝子(ガラス)」のように、人の内面の顔を映し出す存在でもある。自分の醜さに気づいてしまった者は、自分を好きになることができなくなってしまう。彼らが「自分の内面を変化させる」ことができなければ、永遠にその呪いから逃れることはできない。それはあくまで、硝子ではなく自分自身の問題なのである。

山田尚子監督の最大の武器とは何か

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 それでは、本作の映画作品としての単体の価値について考えたい。京都アニメーション作品は、前述したような「萌えアニメ」の表現に長けており、その価値観によって支持を受けてきた部分が大きい。だが今回は、今までになく強力なテーマを持つ、問題作ともいえる原作を得たことで、ともすれば萌えを描くことを主眼に置いてしまいがちだった作画技術を、より広い観客に向けて利用できている。また、少々ドロドロになり過ぎてしまっていた原作の表現を、今までマイルドなふわふわした世界を描いてきた山田尚子監督によってソフトに描写され直したことで、より万人向けに洗練され、相乗的に完成度が高められていると感じる。

 山田尚子監督の演出的な特徴は、キャラクターの繊細な演技から生まれる場面的なリアリティと、実写風の抑制された画面の構成である。それは、登場するキャラクターと鑑賞者の間に明確な差異を与え、一種、突き放した冷徹さすら生じさせる。だが、その持ち味は、客観的なまなざしが必要であるはずの本作にふさわしい資質であったように思える。

 ただ、比較的シンプルな構成だった原作から、時系列の複雑な組み換えによって、原作未読の観客にとってドラマの推移が少々わかりにくくなっている部分もある。全体を通しピアノをはじくようなニュアンスによる劇伴が使用されているところは、おそらく製作者の意図に反して、全体が「ひとつの回想、思い出」のように見えるという効果を発揮してしまい、前に進みだそうとするテーマとは裏腹に、ノスタルジックで優し過ぎる印象を与えている。これは、山田監督の繊細さが、原作の迫真性を一部減じてしまっている点ではないかと思われる。

 しかし、山田尚子監督の最大の武器は、それらとはまた別にある。劇場作品『たまこラブストーリー』では、ある女子高生が「好きだ」とひとこと言われただけで、彼女を包み込む景色のすべてが光の粒子に置き変わり、それが水彩表現に変化していくという、アートアニメーションを用いた実験的演出がとられる。その瞬間、今までのリアリティによる抑制が一気に解かれ、作品全体に輝きを与えることになる。日本の商業的なアニメーションにおける文法から完全に離れた、手法的な解放が、物語自体の解放とも結びついているのである。

 この、ある体験によって「一瞬にして世界が輝きだす」という表現が、山田尚子監督の持つ作家性の核である。本作、映画『聲の形』が、ある「スペクタクル」をラストシーンに設定するという、原作からの改変は、まさに世界が主観的に切り替わる瞬間こそが自身の作家性であることに自覚があるからであろう。そこで描かれたのは、「呪いを解く魔法」であり、「人は変わることができる」というメッセージである。