小学校の「あだ名禁止」 過度のルール
いまの仕事楽しい?……ビジネスだけで成功しても不満が残る。自己啓発を延々と学ぶだけでは現実が変わらない。自分も満足して他人にも喜ばれる仕事をつくる「魂が燃えるビジネス」とは何か? そのヒントをつづる連載第38回
現在の小学校ではあだ名が禁止されていることがあるそうです。「いじめに繋がりかねないから」というのが主な理由です。
しかしあだ名は必ずしも「悪いもの」とは限りません。ある経営者は部下を育てたい時に「ボス」と名付ける、という話を聞いたことがあります。せっかく良いものを持っているのに引っ込み思案でなかなかそれを表に出せない、そんな部下を成長させるためにこういったあだ名を使うそうです。
もちろん、あだ名にまつわる話が良いものばかりとも限りません。学校が危惧するように悪意によってあだ名をつけられ、人が傷つけられた場合も数多くあるでしょう。
あだ名をつけるのが良いことなのか、それとも悪いことなのか。特定の人物につけられたあだ名が良いものなのか、悪いものなのか。答えは一人一人の状況によって異なります。
どんな物事も頭ごなしに決められるものではありません。しかし、私たちはインスタントに答えを求めがちです。Aというテーマがあると、すぐに「Aは良いのか悪いのか」を知りたがります。
ところが現実は単純には割り切れず、「良いAもあれば、悪いAもある」という場合がほとんどです。
あらゆる物事には二面性が備わっています。
教育とは何か。色々な答えが挙げられますが、「自分で考えられるようになる」のはその一つでしょう。誰かの良い話を一般化することはできないし、誰かの悪い話を一般化することもできません。自分と周囲の幸せのために選択していくのが「考える」ということです。
あだ名について「◯◯くん」も「◯◯ちゃん」も「キムタク」のように名前を縮めて言うのも禁止され、「◯◯さん」だけが許される。そこまで選択肢を絞られるのは、子供たちが「考えること」に対してプラスになるのでしょうか。相手をどう呼ぶかは関係性や距離感で決まります。逆に言えば、呼び名を通して私たちは人間関係に学んでいるということです。
ルールは環境を頭ごなしに作りあげてしまい、純粋培養になりがちです。人生が善意だけで出来ていて、トラブルが何も起きなければそれでいいのですが、そんな事はありえません。
私たちは時に悪意を向けられ、そして悪意を向けてしまいます。「私はこれまで一度も他人に悪意を向けたことがない」と言えるとしたら、その人は聖者か嘘つきか鈍感のいずれかでしょう。実際に存在してしまう悪意をいなす術を覚えるのも学びの一つです。
「あだ名禁止」といったルールにしても理屈で決まっているとは限りません。その地域の状況に即した合理的な理由で決めたのかもしれないし、校長が変わって決まったのかもしれないし、一部の声の大きい保護者によって決まったのかもしれません。
子供や保護者に限らず、歯痒く感じながらも従わざるをえない教育者もいらっしゃるでしょう。
法律でさえ時代に合わせて変わっていきます。ましてや「◯◯禁止」といったローカルルールで全てを賄おうとするのは無理があります。あだ名など言葉に関するもの特はにそうです。私たちは同じ言葉を使いながらニュアンス次第で、称賛と皮肉の両方の意味を込められます。言葉の持つ複雑さの中で、私たちはルールに従うだけでなく、考えることを求められています。